2007年09月30日

映画監督[周防正行]

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映画ファン「映画監督・評論家編」
周防正行



周防 正行(すお まさゆき、1956年10月29日 - )は、日本の映画監督、脚本家。東京都出身。立教大学文学部フランス文学科卒業。妻は、バレリーナで女優の草刈民代。



来歴・人物

立教大学在学中に蓮實重彦の映画論の講義に出席し大きな影響を受ける。また、自身は参加していなかったものの、同大学の映画製作サークルであるパロディアス・ユニティーのメンバーだった黒沢清、万田邦敏等と親交を持った。大学卒業後、映画製作を目指し『神田川淫乱戦争』(黒沢清監督・1983年)等のピンク映画の助監督を務めた後に、1984年に『変態家族 兄貴の嫁さん』で監督デビュー(この作品は、台本上の原題は『お嫁さん日和』というタイトルだった)。全編小津安二郎の映画の引用と参照で埋められたこの作品は、小津安二郎を心から愛する周防正行が、その愛しているものを一度はそっくりそのままマネしたいと思って制作したもので、安直なオマージュやらパロディーではない。周防自身、一度だけの挑戦と心に決めていたと明言しており、事実、その後の周防の作品には小津の赤裸様なかつ直接的な影響も作家主義的な色合いもなく、コメディーとエンターテイメントに徹した作品を作り続けている。1987年には伊丹十三監督のヒット作『マルサの女』の撮院 F8=>l$rDI$C$?%*%j%8%J%k%a%$%-%s%0%S%G%*!X%^%k%5$N=w$r%^%k%5$9$k!Y!"Mb1988年には『マルサの女2をマルサする』の演出・構成を担当。2作目では一部撮影も行っている。1989年、修行僧達の日常と青春を描いた『ファンシイダンス』で注目を浴び、高い評価を得た後、1991年に大学の弱小相撲部を舞台にした『シコふんじゃった。』を製作。そして1996年に『Shall we ダンス?』で日本アカデミー賞の監督賞と脚本賞を受賞。その後、自らフィルムを抱えアメリカに渡り、長期間かけて全米各地区を巡って地道な映写活動を行い商業的な成功を収め、ピーター・チェルソム監督によるリメイク(『Shall We Dance』・2004年)が制作されるに至っている。またこの時、『Shall we ダンス?』の全米における配給を担当した米ミラマックスとの間で、以後の映画制作に関するファーストルック契約を結んでいるが、現在は既に失効している模様である。長いブランク(映画に関して。映画以外の表現活動については、この間もコンスタントに活動している)があったが、痴漢冤罪に興味を持ち、日本の警察 !!&;JK!$KBP$75?Ld$rEj$2$+$1$?!X$=$l$G$b%\%/$O$d$C$F$J$$!Y$,! 2007\xC7 /1月20日に公開された。



姓(周防)に関して

姓の呼び方は、元々「すお」であったが、「すおう」と呼ばれる為に公式にも周防は「すおう」としていた。だが本来は「すお」であるため、近年公式にも「すお」に正式に変えている(「久米宏 ラジオなんですけど」より)。「すお」とは、母親が教えてくれたそうであるが、親戚は「すおう」と称していると語っている。(「めざましテレビ」より)



監督作品


  • 変態家族 兄貴の嫁さん(1984年)

  • マルサの女をマルサする(1987年)

  • マルサの女をマルサする2(1988年)

  • ファンシイダンス(1989年)

  • シコふんじゃった。(1991年)

  • Shall we ダンス?(1996年)

  • それでもボクはやってない(2007年)



    著書




    [小説]


  • シコふんじゃった。(太田出版、1991年)

  • Shall we ダンス?(幻冬舎、1996年)



    [エッセイ]


  • 『Shall weダンス?』アメリカを行く(太田出版、1998年)

  • スタジアムへ行こう! - 周防正行のスポーツ観戦記(角川書店、2000年)

  • インド待ち(集英社、2001年)

  • アメリカ人が作った「Shall we dance?」(太田出版、2005年)


    [対談・インタビュー]


  • 古田式(太田出版、2001年、古田敦也との共著)

  • ファンの皆様おめでとうございます(大巧社、2002年、若松勉との共著)

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    2007年09月28日

    映画監督[大島渚]

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    大島渚



    大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - )は、映画監督。京都市生まれ。京都市立洛陽高等学校(現・京都市立洛陽工業高等学校)卒業。大学在学中は京都府学連委員長を務め、1954年京都大学法学部を卒業後、松竹大船に入社。助監督を経て『青春残酷物語』『太陽の墓場』(1960年)などのヒット作で松竹ヌーベルバーグの旗手となる。日米安全保障条約の改定・批准に反対する安保闘争を舞台にした作品『日本の夜と霧』(1960年)の上映中止に抗議し、松竹を退社。その後、『愛のコリーダ』(1976年)、『戦場のメリークリスマス』(1983年)、『御法度』(1999年)など。テレビのコメンテーターとしても活躍。



    概要
    国内では初期の作品から注目を集め、松竹ヌーベルバーグの旗手ともいわれたが、国際的名声を不動にしたのは、1936年の阿部定事件を題材に男女の性的執着と究極の愛を描いた1976年の挑発的作品『愛のコリーダ  Y('':en:In the Realm of the Senses|In the Realm of the Senses'')であった。黒澤明監督流のヒューマニズムと検閲制度に対する激しい批判からハードコア・ポルノグラフィーへと傾斜した大島は、公権力の干渉を避けるため日仏合作という形を取り、撮影済みのフィルムをフランスに直送して、現像と編集の作業を行なった。公開当初は映画倫理管理委員会|映倫の介入によって作品が意味をなさないほどの大幅な修正で国内上映されたが、2000年のリバイバル上映で修正個所は大幅に減ったものの、ボカシが入ったものとなっており、現在でも国内でオリジナルヴァージョンを観ることはできない。『愛の亡霊』(''Empire of Passion'') は同様のテーマを扱った作品。不倫の妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという、前作よりもある程度性的描写を抑制した。この作品でカンヌ国際映画祭が監督賞を授与した。その後1996年に約10年ぶりの映画製作発表をしてまもなく渡英先のロンドンで脳出血に見舞われた。その後、三年にわたるリハビリテーションが功を奏し復帰作『御法度』(1999年)の公開を果たした。



    ! 業績と変遷



    [映画監督として出発するまで]



    [『日本の夜と霧』]



    [社会派監督の時代]



    [時代と切りむすぶ]



    [日本と『絞首刑』]



    [当たり屋と沖縄]



    [60年代の総決算]



    [愛と自由を問う]



    [収容所と官能性]



    [集団性を凝視して]




    監督作品


  • 明日の太陽(1959)

  • 愛と希望の街(1959)

  • 青春残酷物語(1960)

  • 太陽の墓場(1960)

  • 日本の夜と霧(1960)

  • 飼育(1961)

  • 天草四郎時貞(1962)

  • 忘れられた皇軍 (TV)(1963)

  • 私はベレット(1964)

  • 悦楽(1965)

  • ユンボギの日記(1965)

  • 白昼の通り魔(1966)

  • 忍者武芸帳(1967)

  • 日本春歌考(1967)

  • 無理心中日本の夏(1967)

  • 絞死刑(1968)

  • 帰って来たヨッパライ(1968)

  • 新宿泥棒日記(1969)

  • 少年(1969)

  • 東京戦争戦後秘話(1970)

  • 儀式(1971)

  • 夏の妹(1972)

  • 愛のコリーダ(1973)

  • 愛の亡霊(1978)

  • 戦場のメリークリスマス(1983)

  • マックス、モン・アムール (Max, mon amour)(1987)

  • 御法度(1999)



    主な著書


  • 『日本の夜と霧』(作品集) 現代思潮社(1961)

  • 『戦後映画・破壊と創造』 三一書房(1963)

  • 『日本の夜と霧』(作品集、増補版) 現代思潮社(1966)

  • 『魔と残酷の発想』 芳賀書店(1966)

  • 『絞死刑』(作品集)至誠堂(1968)

  • 『解体と噴出』(評論集) 芳賀書店(1970)

  • 『青春 : 闇を犯しつづける葬儀人に一切の権力を!』 大光社(1970)

  • 『わが日本精神改造計画 : 異郷からの発作的レポート』 産報(1972)

  • 『青春について』 読売新聞社(1975)

  • 『体験的戦後映像論』 朝日新聞社(1975)

  • 『同時代作家の発見』 三一書房(1978)

  • 『愛の亡霊』 三一書房(1978)

  • 『日曜の午後の悲しみ』 PHP研究所(1979)

  • 『愛のコリーダ』 三一書房(1979)

  • 『女はみずうみ男は舟』 PHP研究所(1980)

  • 『マイ・コレクション』 PHP研究所(1981)

  • 『戦場のメリークリスマス』 思索社(1983)

  • 『理屈はいいこういう人間が愚かなんだ』 青春出版社(1993)

  • 大島渚1960』 青土社(1993)

  • 『自分も恋も大切に : 女の愛と仕事の相談事典』 マゼラン出版(1993)

  • 『女たち、もっと素敵に』 三笠書房(1994)

  • 『戦後50年映画100年』 風媒社(1995)

  • 『私が怒るわけ』 東京新聞出版局(1997)

  • 『ぼくの流儀』 淡交社(1999)

  • 『脳出血で倒れて「新しい自分」と出会う』青春出版社(2000.9)

  • 『癒されゆく日々』 日本放送出版協会(2000)

  • 大島渚』 日本図書センター(2001)



    主な出演テレビ番組


  • 「タモリのボキャブラ天国」シリーズ



    関連人物


  • 野坂昭如



    外部リンク


  • The Internet Movie Database: Nagisa Oshima

  • 日本映画データベース


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    2007年09月27日

    映画監督[中田秀夫]

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    中田秀夫



    中田 秀夫(なかた ひでお、1961年7月19日 - )は岡山県浅口郡金光町(現・浅口市)出身の映画監督。



    略歴


  • 金光学園中学校・高等学校|金光学園高等学校卒業。1980年、東京大学理科1類に入学し工学部応用物理学科に進学が内定していたが、進路を変更し教養学部アジア学科卒業。在学中に蓮實重彦の映画ゼミに参加し、非常に大きな影響を受ける。

  • 1985年ににっかつ撮影所に入社し、助監督を経て1992年に『ほんとにあった怖い話』で監督デビュー。

  • 同年、文化庁芸術家在外研修員として渡英。1995年に帰国するが、渡英中に製作を開始したジョセフ・ロージーのドキュメンタリーが完成したのは1998年だった。

  • 帰国後に監督した『女優霊』がヒットしたことから多くのホラー作品を手掛けるようになり、現在では黒沢清や清水崇らと並ぶホラー映画|Jホラー(ジャパニーズホラー)の代表の一人と目されている。

  • 国内で大ヒットしたホラー映画『リング (ホラー)|リング』は米国でリメイクされた。この作品は他の監督(ゴア・ヴァービンスキー)の手なるものだったが、続編である『ザ・リング2』では自身が監督を務め念願のハリウッド・デビューを果たしている。トム・クルーズ製作の『The EYE』、フォックス・サーチライトで『Entity』、ニューラインで『OUT』、ドリームワークスで『ザ・リング3』、MGMで『True Believer』などハリウッドでの企画も多数進行中である。



    人物


  • デビュー作が『本当にあった怖い話』シリーズの一作であったり、出世作も『女優霊』というホラー作品であり、何よりも『リング』という大ヒット作の監督であることからホラー(専門)監督と見なされることが多いが、本人に取り立ててホラー映画指向はなく「本当に撮りたいものはホラーではない」と公言している。実際はメロドラマ志向の人であり、「ガラスの脳」はそれが結実した念願の企画でもある。



    作品




    [ 助監督作品 ]


  • ビー・バップ・ハイスクール (映画)|ビー・バップ・ハイスクール(1985年)

  • ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌(1986年)


    [ 監督作品 ]


  • 女優霊(1996年)

  • 暗殺の街(1997年)

  • ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男(1998年、16mm作品)

  • リング (ホラー)|リング(1998年)

  • リング (ホラー)|リング2(1999年)

  • ガラスの脳(1999年)

  • サディスティック&マゾヒスティック(2000年)

  • カオス(2000年)

  • 仄暗い水の底から(2002年)

  • ラストシーン(2002年)

  • ザ・リング2(2005年)

  • 怪談 (2007年の映画)|怪談(2007年)

  • デスノート (映画)#スピンオフ版『スピンオフ L』(仮)|スピンオフ L(2008年2月9日公開予定)


    [ テレビドラマ監督作品 ]


  • 怪奇大作戦 セカンドファイル 「人喰い樹」(2007年、日本放送協会|NHK)



    外部リンク


  • 公式サイト


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    2007年09月26日

    映画監督[五所平之助]

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    五所平之助



    五所 平之助(ごしょ へいのすけ、本名・平右衛門、1902年1月24日−1981年5月1日)は、昭和期の映画監督。日本最初の国産トーキー映画『マダムと女房』の監督として有名である。東京神田区鍋町(現・千代田区内神田3丁目)に、乾物問屋の息子として生まれる。慶應義塾高等学校|慶応義塾商工学校卒業。父の友人の息子である島津保次郎の口添えもあり、1923年、松竹蒲田撮影所へ入社する。島津の助監督を経て、1925年、原作、脚本も手がけた『南島の春』で監督デビューした。引き続き、『彼女』、『恥しい夢』、『村の花嫁』など、ユーモアあふれたそれでいて叙情性豊かな作品を次々と発表する。この作風は、小市民の生活をユーモラスに描いた『マダムと女房』において頂点に達する。また、山本有三原作の『生きとし生けるもの』においては社会派的側面を強く打ち出し、戦時中に撮った『新雪』は興行的にも大ヒットとなった。戦後になると、椎名麟三の『無邪気な人々』を映画化した『煙突の見える場所』を発表し、「新スタイルの笑い」を提供した。また、ベストセラーとなった原田康子ぁ N!XHT2N!Y$r5W2fH~;R$G$"$k!#GP?M$H$7$F$bCN$i$l$F$*$j!"!V5WJ]EDK|B@O:|春燈」同人として「五所亭」という俳号で活躍した。1941年、紫綬褒章、1947年勲四等旭日小綬章受章。



    代表作



  • 南島の春(1925年)

  • 彼女(1926年)

  • 寂しき乱暴者(1927年)

  • 恥しい夢(1927年)

  • からくり娘(1927年)

  • 村の花嫁(1928年)

  • マダムと女房(1931年)

  • 伊豆の踊子(1933年)

  • 十九の春(1933年)

  • 生きとし生けるもの(1934年)

  • 人生のお荷物(1935年)

  • 新道(1936年)

  • 木石(1940年)

  • 新雪(1942年)

  • 今ひとたびの(1947年)

  • 煙突の見える場所(1953年)

  • 愛と死の谷間(1954年)

  • 鶏はふたたび鳴く(1954年)

  • たけくらべ(1955年)

  • 黄色いからす(1957年)

  • 挽歌(1957年)

  • 白い牙(1960年)

  • 猟銃(1961年)

  • かあちゃんと11人の子ども(1966年)

  • 女と味噌汁(1968年)

  • 明治はるあき(1968年)


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    2007年09月25日

    映画監督[黒沢清]

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    映画ファン「映画監督・評論家編」
    黒沢清




    黒沢 清(くろさわ きよし、男性、1955年7月19日 - )は、兵庫県神戸市出身の映画監督、脚本家。六甲中学校・高等学校|六甲高校を経て立教大学社会学部卒業。在学中に兼任講師として映画論講座を受け持っていた蓮實重彦の薫陶を受ける。同ゼミに、当時東京大学|東大の学生だった宮台真司(現:首都大学東京准教授)が出入りしており、当時から黒沢との親交があった。1990年代以降の日本映画界には希有な鬼才。映画監督の黒澤明とは血縁は無い。立教大学在籍中に8ミリの『白い肌に狂う牙』を監督。また万田邦敏らと映画制作集団パロディアス・ユニティーを結成し、伝説的な自主映画『School Days』や『しがらみ学園』を撮った。(→ヌーヴェルヴァーグ|立教ヌーヴェルヴァーグ)1980年、『しがらみ学園』がぴあフィルムフェスティバルに入賞し注目される。
    大学四年時に、長谷川和彦の『太陽を盗んだ男』に制作進行として、1981年には、相米慎二『セーラー服と機関銃』に助監督として映画を学び、その流れからディレクターズカンパニー制作のピンク映画『神田川淫乱戦争』1983年で商業映画デビュー。続く『女子大生恥ずかしゼミナール』は、配給元から日活|にっかつロマンポルノとしては公開拒否の憂き目にあうも、後に一部追加撮影・再編集され『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985年)として晴れて一般公開された。
    この作品の出演を通じ交流を持った伊丹十三の制作・主演でプロ三作目の『スウィートホーム (映画)|スウィートホーム』(1989年)を監督したが、演出方針やビデオ化報酬などで伊丹側と対立、訴訟沙汰にまでいたるほど悪化し、以降両者は関係を絶っている。1992年、オリジナル脚本『カリスマ』がサンダンス・インスティチュートのスカラシップを獲得し渡米(その様子はビデオ作品『2001映画と旅』に散見できる)。帰国後、<職人的な仕事に徹した>低予算、早撮りの環境下で才能の真価を発揮、『復讐』、『勝手にしやがれ』シリーズ、『蛇の道』、『蜘蛛の瞳』など哀川翔主演の連作を手がけたことで、彼のイメージに新たな一面を付け加え、また自身の鮮烈で特異な作風の基盤を築いた。事実、黒沢映画でおなじみの廃墟シーンやダンボール等の小道具が散見されるようになったのはこの時期からである。1997年役所広司主演の傑作『CURE』で世界的な名声を獲得し、世界各国で特集が組まれ、映画祭にも招待された。シネフィルとして70年代ホラー映画、ハマー・フィルム、トビー・フーパー|フーパー、ァ 8%g%s!&%+!<%Z%s%?!<|カーペンターらを愛し、人をこわがらせる表現や恐怖や死といったホラー映画的題材を好んで扱うと同時に、ロバート・アルドリッチ|アルドリッチ、リチャード・フライシャー|フライシャー、ドン・シーゲル|シーゲル、サム・ペキンパー|ペキンパー、サミュエル・フラー|フラーらによる職人気質のウェルメイドな「アメリカ映画」の影響から、感傷的な心理描写を排した作風が生まれた。また蓮實のいう映画史的に正しいとされる映画を顕揚した。高橋洋とともに清水崇『呪怨』の監修を行ったことなどから、『回路』のハリウッドリメイク版『PULSE』のトレイラーでは「Godfather of J-Horror」と称されるなど、フランスや英国では、アキラではない、もう一人のクロサワとして重要な作家として認められている。その功績から2005年、北野武とともに東京芸術大学大学院教授に就任した。黒沢は、いまだ撮られていない映像表現を求め、方法論的な探求から「映画」というメディアの特性に自覚的で、とりわけフィルム撮影にこだわっているわけでもなく、デジタル技術も積極的に取り入れ、既存のジャァ s%k1G2h$H$O$I$l$K$b;w$F$$$J$$?7$?$J:nIJ$rCGB3E*$K@8$_=P$7B3$1$! F$*$j!": #8e$b?7:n$,BT$AK>$^$l$k!#>.@b2H$H$7$F$O<+:n$N%N%t%'%i%$%:>.@b!XCURE』、『回路』(いずれも徳間書店刊)があり、なかでも名著『映像のカリスマ』は、洒脱な語り口と内容から著述家としても黒沢の明晰さをうかがいしることができる。




    監督作品


  • 白い肌に狂う牙(1977年)

  • SCHOOL DAYS(1978年)

  • しがらみ学園(1980年)

  • 神田川淫乱戦争 Kandagawa Wars (1983年)

  • ドレミファ娘の血は騒ぐ The Excitement of the Do-Re-Mi-Fa Girl (1985年)

  • スウィートホーム (映画)|スウィートホーム Sweet Home (1989年)

  • 奴らは今夜もやってきた (『危ない話 夢幻物語』第2話) (1989年)

  • もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵(1990年) TV

  • 地獄の警備員 The Guard from the Underground (1992年)

  • よろこびの渦巻(1992年) TV

  • 胸さわぎの15才 第11話、第12話(最終回)(1993年)TV

  • ワタナベ1話、2話、11話、12話(最終回) (1993年)TV

  • ヤクザタクシー 893TAXI(1994年)ビデオ

  • 打鐘(ジャン) 男たちの激情(1994年)ビデオ

  • 花子さん(『リアリスティック・ホラー 学校の怪談I』) (1994年)

  • 勝手にしやがれ!!強奪計画(1995年)

  • 勝手にしやがれ!!脱出計画(1995年)

  • 勝手にしやがれ!!黄金計画(1996年)

  • 勝手にしやがれ!!逆転計画(1996年)

  • 勝手にしやがれ!!成金計画(1996年)

  • 勝手にしやがれ!!英雄計画(1996年)

  • DOOR III (1996年)

  • 復讐 運命の訪問者(1997年)

  • 復讐 消えない傷痕(1997年)

  • 廃校綺談(『学校の怪談f』) (1997年)

  • CURE (1998年)

  • 蛇の道 Serpent's Path(ビデオ題・修羅の極道 蛇の道) (1998年)

  • 蜘蛛の瞳 Eyes of the Spider(ビデオ題・修羅の狼 蜘蛛の瞳) (1998年)

  • 木霊(『学校の怪談G』) (1998年)

  • ニンゲン合格 License to Live (1999年)

  • 大いなる幻影 Barren Illusion (1999年)

  • カリスマ (映画)|カリスマ Charisma (1999年)

  • 回路 (映画)|回路 Pulse (2000年) 第54回カンヌ国際映画祭 国際批評家連盟賞

  • 降霊 KOUREI/Seance (2001年)

  • 花子さん(学校の怪談 物の怪スペシャル) (2001年)

  • 2001年映画と旅 「第16回国民文化祭・ぐんま2001in たかさき」より製作依頼された作品 (2001年)

  • タイムスリップ (2002年)オムニバス「愛と不思議と恐怖の物語」のうちの一本

  • 風の又三郎 NHK「朗読紀行・にっぽんの名作」の一作(2003年)

  • 刑事(デカ)まつり『霊刑事』(2003年)

  • アカルイミライ bright future (2003年) 第56回カンヌ国際映画祭 コンペティション部門正式出品

  • ドッペルゲンガー (映画)|ドッペルゲンガー Doppelganger (2003年)

  • ココロオドル (2004年) 雑誌"Invitation"に特別付録DVDとして付属

  • 楳図かずお恐怖劇場 蟲たちの家 (2005年)

  • LOFT ロフト (映画)|LOFT (2006年)

  • 叫 (映画)|叫 (2007年) 第63回ヴェネチア国際映画祭 特別招待作品



    関連書籍


  • 映像のカリスマ―黒沢清映画史(1992年) フィルムアート社

  • キュア(1997年) 徳間文庫

  • ロスト・イン・アメリカ(2000年) 青山真治、安井豊、阿部和重、塩田明彦、(編)稲川方人、樋口泰人 デジタルハリウッド出版局

  • 回路(2001年) 徳間書店

  • 映画はおそろしい(2001年) 青土社

  • 黒沢清の恐怖の映画史 篠崎誠 (共著)(2003年) 青土社

  • 回路(2003年) 徳間文庫

  • ユリイカ「黒沢清 特集」(2003年7月号) 青土社 [万田氏との対談、俳優インタビューなど]

  • 映画の授業―映画美学校の教室から(2004年) 青土社

  • 黒沢清の映画術(2006年) 新潮社

  • 映像のカリスマ―増補改訂版(2006年) エクスナレッジ



    出演作品


  • 星くず兄弟の伝説(1985) サロン魚の目の客

  • 誘惑者(1989)  図書館員

  • ミカドロイド(1991)

  • パチンカー奈美(1992)

  • したくて、したくて、たまらない、女。(1995)  ジャーナリスト

  • 亡霊学級(1996)

  • ピエタ(1997)  地下酒場の警官

  • 血を吸う宇宙(2001) 新聞配達

  • 曖昧な未来、黒沢清(2002)  本人

  • 3on3 スリー・オン・スリー(2003)

  • ピンクリボン(2004) 本人

  • 輪廻(2006) 大学教授

  • 映画監督って何だ!(2006) 


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    2007年09月24日

    映画監督[押井守]

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    映画ファン「映画監督・評論家編」
    押井守



    押井 守(おしい まもる、1951年8月8日 - )はアニメや実写映画を中心に活動している日本の映画監督、演出家。その他にも、ゲームクリエイター、小説家、脚本家、漫画原作者と活動は幅広い。東京都大田区出身。東京都立小山台高等学校、東京学芸大学教育学部美術教育学科卒。静岡県熱海市在住。2008年度より東京経済大学コミュニケーション学部の客員教授に就任予定であると、同大学のホームページにおいて発表があった。代表作に『うる星やつら』『機動警察パトレイバー』『攻殻機動隊』など。アニメ映画『イノセンス』(カンヌ国際映画祭コンペ部門出品作品)により、日本SF大賞を受賞した。大賞でアニメ映画が対象となったのはこれが初めてであった(星雲賞では過去に例がある)。イヌ|犬好きであり、犬の絵柄がデザインされたTシャツやトレーナーを好んで着用していた。現在、公の場では靴下や下着など目立たない部分のみに止めている。個人事務所は、有限会社八八粍。事務所所在地は、東京都港区 (東京都)|港区虎ノ門。押井自身の全額出資によって設立さ\xA1 $l$?!#



    作風

    押井守が多く用いる映像表現として、アニメとコンピュータグラフィックス|CGの融合、レンズの概念をアニメに取り入れる、実写的要素をアニメに取り入れる、などがある。これらの手法は押井の独創ではないが、現在の漫画・アニメ界に関わる多くの人に影響を与えている(押井のこれらの手法の使い方が印象的であることの証明ともいえる)。また音楽を非常に重視しており、近年の作品の音楽はすべて川井憲次に任せている。もはや川井憲次の音楽表現は押井作品と切り離せないと言える。その映像センスと音楽表現、そして時には「ギャグ」、時には「哲学」として語られる独特の長台詞回し(「押井節」とも呼ばれる)は、一部から高い評価と支持を得ている。押井の永遠のテーマとも言えるシナリオの方法論として、「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」がある。これも上記と同じく押井が源流ではない(前例として楳図かずおが挙げられる)。押井は自らを「娯楽作品をつくる商業監督である」と語っているが、一方で「自分の作品の客は1万人程度でいいと思っている」「1本の映画を100万人が\xA1 1回観るのも、1万人が100回観るのも同じ」といった発言発言の真意は「映画は公開された時に勝負が終わる訳ではなく、むしろその後の方が重要」という考えによる。があることから大衆・万人に受け入れられる作品づくりにはあまり興味がない模様である。書籍『押井守全仕事』において、押井のアニメ業界での師匠であるアニメ監督の鳥海永行や、身内とでも言うべきほどに近しい北久保弘之から、こうした姿勢に苦言を呈されてもいる。また、作画監督の黄瀬和哉からは宮崎駿の『千と千尋の神隠し』の試写の後「あんたにはああいう映画は作れない」、『イノセンス』制作後のインタビューで「北野武|たけしでさえ『座頭市』を撮ったのに…」とのコメントがあった。また、「自分より年上の人間に向かって作品を作ったことがない」という発言もある。制作に入った作品はキッチリ納期までに仕上げることをポリシーとしていて、現に(現場が動き出す前に頓挫した作品を除き)殆どの作品の納期を守っている。しかしそうしたスタンスのた\xA1 $a!"8x3+$K4V$K9g$o$J$/$J$k$HH=CG$7$?%7!<%s犬が登場ぁ 9$k%7!<% s$b4^$^$l$k!#は、たとえそれが作画作業中であってもカットすることが少なくない。また、上映時間は90分前後から最長でも120分未満を理想としているため、ストーリー上余分と判断した所『機動警察パトレイバー 2 the Movie』ではかつての特車二課第二小隊の面々のエピソード、『イノセンス』では前作『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の回想シーンがカットとなっている。は画コンテ|コンテ段階で極力省かれる。中には『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の諸星あたるが幾多の夢を迷走するシーンの一部や、『アヴァロン (映画)|アヴァロン』の冒頭、装甲ヘリが 爆撃態勢に入るカットなど、ほぼ完成していながら本編に入らなかった例もある。 そうした、ストーリー的な解りやすさよりも映画の完成度を優先する姿勢が、結果的に観客に難解な印象を与える要因の1つとも言える。1度完成し、公開された作品の映像に新たに手を加えることを好まないため、DVD化においても本編に未公開シーンを加えた完全版などは基本的\xA1 $K@):n$5$l$J$$!#例外に森本晃司 (アニメーター)|森本晃司が手がけたシーンを加えた『うる星やつら オンリー・ユー完全版』、音声を5.1chにサウンドリニューアルした『機動警察パトレイバー the Movie』 『機動警察パトレイバー 2 the Movie』がある。



    経歴

    1970年、東京学芸大学入学。「映像芸術研究会」を設立し、実写映画を撮り始める。卒業後にはラジオ番組制作会社のディレクターもやっていた。映画監督になる夢をあきらめ図画工作の教員になる予定だったが、教員試験の書類の提出を頼んでおいた友人がそれを忘れて、受験が不可能となってしまった。1977年、映像とは関係の無い会社に就職したがすぐに退社し暇をもてあましていた時に、電柱に貼ってあった求人広告を見てタツノコプロに入社、アニメの演出を手掛けるようになる。当時、スタジオに入るまでアニメにはあまり触れていなかったという(タツノコプロのアニメはちらっと見て印象に残っていたため、求人広告に応じたという)。やがて、2年早く入社した西久保瑞穂、真下耕一、うえだひでひとと共に「タツノコ四天王」の異名を取るようになる。なお、西久保と真下が演出助手から始めたのに対して、押井はラジオでのディレクター経験を買われ、最初から演出を任されていた。独特のギャグの才能をタツノコプロ演出部長の笹川ひろしに買われて、『タイムボカンシリーズ』を長く担当。タツノコプロ退社後もアルバイトで画コンテ|絵コンテを描\xA1 $-!"8e$K$O;}$A%M%?$N$R$H$D$H$7$?N)$A6t$$%M%?$r$3$N;~$9$G$K!X%?%$%`%\%+%s%7%j!<%:!Y$K@9$j9~$s$G$$$k!#1980年、私淑する鳥海永行に続く形でスタジオぴえろに移籍。テレビアニメ『ニルスのふしぎな旅』のレギュラー演出家として鳥海の下につく。タツノコプロ時代よりこの頃の押井はギャグを得意とすると見なされており、ぴえろ社員として『まいっちんぐマチコ先生』の絵コンテを1本描いたこともあった。翌1981年、テレビアニメ『うる星やつら』のチーフディレクターに抜擢。当初は「声優がイメージと違う」などの原作ファンからのバッシングや低視聴率に苦しみ、フジテレビジョン|フジテレビ側との軋轢も生じたが、原作の的確なアレンジ、千葉繁演じる「うる星やつら#ラム親衛隊|メガネ」などの押井の分身とも思えるサブキャラクターの熱演、若手スタッフの登用と彼らによる“暴走”と呼ばれる作画、映画や漫画のパロディや前衛的な内容などが視聴者に支持され、やがて高視聴率を挙げるようになる(ただし、あまりにも原作とかけ離れたオリジナルの回の放送直後に呼び出しを受けるなど、局側との軋轢は続いた)。その後、\xA1 7`>lHGBh1作『うる星やつら オンリー・ユー』、さらに\xA1 7`>lHGBh 2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で単なるアニメ演出家というよりも映像作家として認知されるようになる。なお『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は1984年キネマ旬報読者選出ベスト・テン第7位(邦画)という快挙を成し遂げている(同年の1位は『風の谷のナウシカ』)。虚構性をテーマとする押井の作風が確立したのはこの頃からである。1984年、『うる星やつら』を降板すると同時にスタジオぴえろを退社(当時『アニメージュ』のプレゼント色紙に「玄界灘」というコメントとともに崖に立つ自画像を描いたこともある)。以後フリーランスの演出家となる。1984年に宮崎駿、大塚康生の誘いもあり、『ルパン三世』映画ルパン三世 バビロンの黄金伝説|第3作の監督の依頼を受ける。ところが、半年間考えた脚本(「押井版ルパン三世」)を東宝と読売テレビのプロデューサーから没にされて製作は中止(日本放送協会|NHKの番組トップランナーに出演した折の発言によると、その脚本とは「ルパンなる人物は実は存在しない」という内容だったという。)。その後、同映画ぁ N%9%?%C%U$@$C$?E7Ln4n9'$H$H$b$K!"FA4V=qE9!&!X%"%K%a!<%8%e!Y$N%P%C%/%"%C%W$K$h$j!"%9%?%8%*%G%#!<%s$N@):n$GOVA『天使のたまご』を完成させる。なお、『天使のたまご』には、のちの劇場アニメ『機動警察パトレイバー the Movie』にも共通する、幻となった押井版ルパン三世|押井版『ルパン三世』で押井が描こうとしたテーマが根底に流れているといわれる。また、同年『アニメージュ』誌で初の漫画原作作品『とどのつまり…』連載を開始。作画は『うる星やつら』の作画を支えた森山ゆうじが担当した。1987年、タツノコプロで同僚だった西久保瑞穂が監督を務めた『赤い光弾ジリオン』に参加。画コンテ|絵コンテ2本のみだったが、この作品がきっかけとなって、後に活動の拠点とするProduction I.Gとの付き合いが始まる。同年、声優・千葉繁の宣伝|プロモーションビデオを自主制作する話が発展し、『うる星やつら』も担当した音響制作会社オムニバスプロモーションの製作による実写作品『紅い眼鏡 / The Red Spectacles|紅い眼鏡』を監督。この映画の予算は「こんな低い制作費で作れるわけがない!」ぁ H4X78$,2A$rl$r9-$2$k!#!XE7;H$N$?$^$4!Y0J9_$O:n2H@-$N6/$$%^%K%"%C%/$5$,:R$$$7$F5年ほど干された(本人談)。最初の1年目は毎日ゲームをして過ごして、2年目は貯えも底をつきさすがに危機感を覚え企画書を書いては断られ・・・と言う毎日だったが、そこに「ヘッドギア」への参加依頼を受け押井曰く「しょうがなく」参加する。1988年にはOVA『機動警察パトレイバー』を監督して第一線に復帰。続けて1989年に公開された劇場アニメ『機動警察パトレイバー the Movie』で第7回日本アニメ大賞を受賞するなど、メジャーな存在に復帰した。スタジオぴえろから独立後、OVAシリーズ『機動警察パトレイバー』まで、押井はスタジオディーンと組んで仕事をすることが多かったが、『機動警察パトレイバー the Movie』を契機として、押井は活動の拠点をProduction I.Gへと移した。以後、Production I.Gにはフリーでの参加ながら、企画者育成のために「押 !0f=N!W$r押井守が言うには、「年間」ではなく、「週間」の瞬間最大風速でしかない。アメリカでの上映時の写真フィルム|フィルムの状態がひどく悪く、鮮明な画質で見たい人たちが発売と同時に購入した。実は既に、成人向けアニメが1位を記録していた、とのこと。
    これは日本アニメ史上初の快挙として、国内で大きく報道された。スティーブン・スピルバーグやジェームズ・キャメロンなどに絶賛され、ウォシャウスキー兄弟の『マトリックス (映画)|マトリックス』はその影響を強く受けている。国内のプロからあまりはっきりした評価を受けず、海外のプロから激賞されたという意味で、日本以外で有名な映画監督と言えるかもしれない。2004年には『イノセンス』が第57回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされた。ちなみにカンヌ国際映画祭のコンペ部門に日本のアニメーション作品が出品されるのはこの作品が初めてであり(宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』はベルリン国際映画祭に出品)、ここでも押井作品の国際的な評価が高いことがわかる。2005年の2005年日本国際博覧会|愛知万博にて、中日新聞プロデュース共同館「夢みる山」で上映した映像作品『めざめの方舟』の総合演出を担当した。



    人物像




    [ 本人について ]


  • 兄、姉の三人兄弟の末っ子。血液型O型。姉は舞踏家の最上和子。父は興信所で私立探偵業を行なっていた。その影響か、しばしば押井作品には探偵や刑事が登場する。

  • 遠浅の東京湾が埋め立てられていく過程を見て育ったためか、埋立地への嫌悪を隠そうとしない。『機動警察パトレイバー』シリーズでは「予算の都合から(作画の手間が少なくて済む)埋立地を舞台にした」としているが、押井が担当したエピソードでは人間が持つ利己主義|エゴイズムの象徴として描かれる傾向がある。また『パトレイバー』に限らず、いくつかの作品では埋立地のゴミ処分場がラストシーンになっている。

  • 1968年に高等学校|高校2年で成田闘争に参加。押井の大学入学時に学園紛争は終息に向かうが、学生運動は押井の原風景となって、いくつもの作品に顔を出している。後に押井自身は自らの世代を「(学生運動という祭りに)遅れてきた世代」と語っている。

  • 大学の同窓生によれば卒業制作は絵画・彫刻によるとされているにもかかわらず、ただ一人映画製作をし、強引に卒業作品として教授に認めさせ卒業してしまったという。

  • 無類の犬好きで、犬を飼うためだけに熱海へ引っ越したと公言している(猫も嫌いというわけではなく過去には愛猫「ねね」(2000年 夏 永眠)、現在「水無月」がいる)。魚、鳥とともに犬を作品のモチーフとし、自らの愛犬を作品によく登場させる。愛犬雑誌の『WAN』(ペットライフ社)に連載「熱海バセット通信」を執筆した。本人の自画像などにも犬を用いるが、これはアンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー (映画 1979年)|ストーカー』によるものらしい。好きな犬種はバセットハウンドとシェーファーフント(シェパード)。愛犬はバセットハウンドのガブリエル(通称ガブ・♀ 2007年4月3日 永眠)と雑種のダニエル(通称ダニィ・♂ ちなみにダニだらけだったからダニィということもある)。『イノセンス』の制作中ガブリエルがヘルニアを患ったため引越しをし、さらに看病のために仕事を休んだため、一時は監督解任かと騒がれたという逸話がある。また、完成した絵コンテにはハンコが捺印されるが、その絵柄も犬である。

  • 初対面の人間ともよく喋るが、早口で小声であるために聞き取りにくいという人もいる。これは本人が中耳炎を患っているためでもある。

  • 字が汚く、師匠の鳥海永行から「よくこの字で大学を合格できたな」と言われたこともある。そのため近年の画コンテ|絵コンテには写植が施されている。

  • 『天使のたまご』後にしばらく仕事が途絶えたころ、上記の通りファミコンとパーソナルコンピュータ|パソコンでゲームに熱中した。この経験を活かしてゲーム雑誌『コンプティーク』および『電撃王』に随筆|エッセイ『注文の多い傭兵たち』を連載。製作に関わったゲームには、ファミコンゲーム『サンサーラ・ナーガ』、スーパーファミコン『サンサーラ・ナーガ2』、メガドライブ『機動警察パトレイバー 〜98式起動せよ〜』、そして昨今ではプレイステーション・ポータブル|PSP『機動警察パトレイバー かむばっく ミニパト』がある。またコンピュータRPG『ウィザードリィ』の影響を強く受けており、『機動警察パトレイバー2 the Movie』には「トレボー」「ワイバーン」など『ウィザードリィ』にちなんだ名前が劇中に登場する。『アヴァロン (映画)|アヴァロン』に至っては、『ウィザードリィ』を押井が独自の解釈で映像化したものであり、押井が脚本を担当した『パトレイバー』TV版の『地下迷宮物件』および『ダンジョン再び』は、エピソードそのものが『ウィザードリィ  Y$N%Q%m%G%#$H$J$C$F$$$k!#

  • パソコン通信を行なっていた。アスキーの運営する『アスキーネット』に書き込みをしたことがある。

  • 戦車や銃を愛好するミリタリーマニア。アルバイトで加わった名作アニメ『名犬ジョリィ』では、必要以上にガンの描写にこだわった絵コンテを切った。下でも触れているが、人手が足りない『うる星やつら』初期に、戦車の原画を描いたことがあった。『うる星やつら』の演出を担当した最後の話では、第二次世界大戦時代の戦車や航空機を用いて攻防戦を描いた。映画『ミニパト』でも銃について薀蓄を披露している。

  • アニメのキャラクターデザインのモデルになったことがある。スタジオぴえろ時代にアルバイトで参加した『逆転イッパツマン』では「若作りの丸輪さん」。アニメ『うる星やつら』の脚本の伊藤和典とキャラクターデザイナーの高田明美が参加した『魔法の天使クリィミーマミ』では「星井守ディレクター」、「日高守少年」。伊藤と高田はアニメ雑誌『アニメージュ』で押井を主人公にした4コマ漫画を連載したこともある。『ゼンダマン』や『タイムパトロール隊オタスケマン』に登場する「惜しい」を連呼するマスコット「オシイ星人」も押井から取られたもの。「ミニパト」の中でも押井をモデルにした犬「オシイヌ」が登場する。

  • 『G.R.M. THE RECORD OF GARM WAR(ガルム戦記)』の凍結解除を執念深く待ち続けている。コンピュータグラフィックス|CGの登場により、実写とアニメーションは融合して区別できなくなる、というのが年来の押井の持論である。『G.R.M. THE RECORD OF GARM WAR(ガルム戦記)|ガルム戦記』において、その自身の理論を現実に展開するはずであった。ただ、『ガルム戦記』パイロット版の制作で得たノウハウは、のちに『アヴァロン (映画)|アヴァロン』に活かされている。

  • アニメにおけるレイアウトシステムの重要性を訴え、大量のレイアウトを解説した『METHODS 機動警察パトレイバー2 演出ノート』を著している。

  • 日本酒については熱燗派で、夏でも冷酒は飲まないらしい。

  • 制作した作品は暴力的なシーンが多いが、実は血に弱く、『ケルベロス 〜StrayDog〜 地獄の番犬』 の撮影中、銃撃シーン用に用意された大量の血糊を見て気分が悪くなり、その大半を廃棄させたことがある。

  • 夫人の影響で、最近はサッカー観戦も趣味となった。ご贔屓のクラブチームはジュビロ磐田。チェルシーFCとその監督ジョゼ・モウリーニョのファンであり、UEFAチャンピオンズリーグも非常に楽しみにしている。ドイツも好きらしくワールドカップではドイツを応援し、日韓共同開催の際にドイツ対イングランドをスタジアムで観戦した。その影響は作品にも現れ「ケルベロス:鋼鉄の猟犬」作中の実在していない人物の名前は、サッカー選手から取られている。

  • ライターとなった娘(前妻との娘)からの取材を受けたことがあり、その際は「妙な気分だった」と語っている。ちなみにこの娘は作家乙一の夫人となった。

  • うる星やつらでの制作に「懲りて」今後は一生テレビアニメ制作はしないと心に決めている(宮崎駿に「テレビシリーズであくせくせずに自分の作りたいものを作れ」と助言された事も一因だという、「PROJECT_MERMAID」は例外とみた方がいいだろう)。それ以来テレビアニメには脚本・絵コンテ・企画の監修程度しか関わっていない。機動警察パトレイバーのTV化に「シリーズ化なんだ、あんたがやるのが筋だろう」と監督を依頼されるも、何とか粘って断った過去がある。

  • あまり語られていないが原画を書いたことがある。「うる星やつら」の制作時、戦闘機・戦車が書けるアニメーターがいなかった為に押井が書いていた(しかしさすがに旋回シーンは書けなかったと言う。クレジットには表記されていない)。「ダロス」制作時にも最終話のレーザービーム発射シーンの2・3カットは押井が書いていた(同じくノークレジット)。


    [ 人間関係 ]




    [ 宮崎駿 ]


  • 宮崎駿と親交があり「宮さん」と呼んでいる。
    押井は宮崎駿がかねてよりその才能を認めていた数少ない同業者の一人であり、ルパン製作に押井を推薦するなどしている。対談でも圧倒的な論理を展開する宮崎に対して押井も独自の理論を展開して応戦するなど負けていない。(宮崎は自分と対等に理論的に話せる相手を欲している、と鈴木プロデューサーは語っており、押井はその数少ない一人だったといえる)
    また、二人の作品には共通点もあり、例えば戦車や飛行機など軍用機器や車、バイクを出すのが好きであること、モブシーンが多いこと、時折難解で長い文章を人物に話させること、高度なカメラワーク、そしてアニメ界屈指の演出能力の高さ、オチの付け方などである。初対面は『うる星やつら オンリー・ユー』制作後に当時アニメージュ編集者であった鈴木敏夫の引き合わせによって実現した対談の場である。その対談で宮崎は初対面であるにも拘らず『うる星やつら オンリー・ユー』についての疑問点を押井にぶつけ、押井自身もそのことを承知していただけに大変悔しい思いをしたと語っている。(宮崎は相手に才能がなければこんな質問は通常せず、それだけ押井の才能を認めていたから細かい部分が気になったのである。うる星やつらにおける仕事については「竜之介初登場の回は面白かった」などと賞賛しており、また原作者(高橋留美子)は女性だから、自分ら男性にはラムの心はなかなかわからない、などと同情もしている。) その時に押井は「1は自分の思い通りにできなかったけど、2は絶対リターンマッチしてみせる」と意気込んでおり、宮崎も励まし\xA1 $F$$$?!#
    その後、スタジオぴえろを退社した押井は、一時宮崎の個人事務所「二馬力」に机を置いた。宮崎は東京ムービーからの『ルパン三世』監督の依頼に対して、自分の代わりに押井を紹介。「押井版ルパン三世」頓挫後にはスタジオジブリで宮崎プロデュースによる押井監督作品を準備するなど、才能を認め合う仲である。しかしその一方で、考え方の上での二人の対立(科学文明への賛否や環境問題|環境保護のありかた、果ては専業声優の起用不起用など)の溝は深いとも言われる。あるインタビューでは、「宮崎駿|どこかの監督のように安易に俳優を使う事はしたくない。声だけで全ての演技をする声優は素晴らしい役者だ」と述べているほど、声優を大事にする一面を持つ(渡米して『攻殻機動隊』の英語版アフレコに立ち会った後、「日本の声優という職業は世界に例がない貴重な仕事」とも語っている)。また、宮崎のワンマン体制であるスタジオジブリの制作システムについて「クレムリン」、「KGB」、「道場」と評している。またこれらにちなんで、宮崎駿を「書記長」、高畑勲を「ロシア共和国の大統領」、鈴木敏夫を「KGB長官」と評している。兵器に並外れた拘りを見せる押井が「誰もやった事のない空中戦」を見せると意気込む『スカイ・クロラ/The Sky Crawlers』の会見で「空中戦に関しては、はっきり言って宮さんより自信があります」と語ったように、親しみも敬意も対抗意識も見られる関係ながら、『スカイ・クロラ』について語られる端々に表れる「若い人に」という言葉は子供達の将来を案じる宮崎の姿勢に近づいて来ている事を窺わせる。宮崎が『千と千尋の神隠し』で、押井が『イノセンス』などで画の情報量に拘わり抜いた後の新作(『崖の上のポニョ』と『スカイ・クロラ』)では画のシンプルさを表明するという共通点が現れた。* 大学時代に主宰した「映像芸術研究会」は、既存の大学の映画研究会と喧嘩別れした押井が新たに作ったもの。このサークルには後に映画監督となる後輩の金子修介や、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』に登場する自衛官・荒川茂樹のモデルとなる一橋大学の学生が所属していた。本人は童顔のため、少年役で出演することが多かった。大学時代の押井は毎日のように名画座に通い、年間1000本の映画を見たと言う。*高畑勲についてぁ O$=$N:nIJ$K!V$A$g$C$H7l$,DL$C$F$J$$$H$$$&ItJ,$r46$8$k!W!VIA
  • 宮崎の紹介で『ルパン三世』の監督就任があっさりと決まったのは、当時の東京ムービー社長・藤岡豊が「押井守っていう天才少年がいるそうじゃないか」「『うる星やつら』はうまい・動きが冴えてる」と押井の評判を知っていたからである。

  • 近年になり再び『ルパン三世』の監督オファーの話があったものの、その際は押井の側からNGを出して断ったと言われている。残念がる周囲の人間には「腕毛が生えているのが気に入らないから断った」などと冗談交じりに嘯いているという。

  • 宮崎駿の長男宮崎吾朗とは彼が高校生の頃から面識があり、当時の吾朗には父の作品『風の谷のナウシカ』より押井の 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の方が面白かったという。逆に押井は娘から『紅の豚』のセル画が欲しいとせがまれている。月刊誌『サイゾー』での対談では「宮崎駿|宮さんに引導を渡せ」「それは僕らの役目ではなく、やっぱり息子である吾朗くんの役目であり、義務なんだよ。」と迫っている。ちなみに宮崎吾朗はスタジオジブリ公式サイトの『ゲド戦記』監督日誌で押井について「私に対して一方的な親近感をもってくれているらしく」「もうひと花咲かせてほしいと思っています」とコメントしている。

  • 大塚康生とは宮崎駿が縁となり知り合う。実写映画『紅い眼鏡』では「対話タクシーの運転手」役としての出演、撮影用に「ジープ」を貸してもらうなどの親交がある。 押井は大塚から「理屈が自転車に乗っているような人間」と例えられている。参考文献 キネマ旬報(第1166号) 臨時増刊 1995年7月16日号『宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』 押井守インタビューより

  • 庵野秀明は、押井のスタジオぴえろ退社とほぼ同時期にやはり宮崎駿の元に身を寄せていた時期があり、『天使のたまご』制作にいったんは参加したものの、「修行僧のような生活」に耐えかねて二週間で逃げ出したという(『AERA』掲載の「現代の肖像」(押井守)での記載)。また、押井の作風を「衒学的」と評したこともあったという。しかし、『逆襲のシャア』の同人誌で庵野が押井にインタビューを行ったり(詳細は後述)、『新世紀エヴァンゲリオン』制作前に押井に聖書関連の参考文献についてアドバイスを求めに来たことがあったり、親しい関係である。

  • 新海誠やインディーズアニメなどの個人によるアニメ制作に関しては、「まわりの人間から何も吸収しなくなってしまう」「(新海が儲かったことで)アニメーターが俺もそうすれば儲かると考えて辞めてしまう」などと、限定的な評価に留まっている。

  • 邦画のシステムに対して不信感を抱いており、金子修介との対談の際「邦画というシステムは一度崩壊した方がいい」「(アニメをおだてておきながら)アニメを映画として認めてこなかった。現に日本アカデミー賞にはアニメーション映画部門がない」(対談当時。2006年に新設された)との発言をしている。

  • 高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔との多くの対談において「『装甲騎兵ボトムズ|ボトムズ』を見たときには血が逆流した」「僕がやりたかったことの先取りだった」「『ボトムズ』は軍事をアニメに持ち込んだエポック的作品だった」などと、高橋の代表作『装甲騎兵ボトムズ』へ熱い賛辞を述べている。ちなみに押井のレイアウトシステム確立に不可欠だった『機動警察パトレイバー』『攻殻機動隊』『イノセンス』のキーアニメーターで作画監督を務めた黄瀬和哉・沖浦啓之はともに、『ボトムズ』を始め1980年代の高橋作品の作画の中核を担った作画スタジオ、アニメアールの出身者である。

  • 富野由悠季作品の中では『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を評価しており、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』はオマージュ的な側面もあると語っている。庵野秀明らによって出版された同人誌『逆襲のシャア友の会』で、庵野を聞き手に押井守が作品について多くを語っている。別の誌面での富野との対談時、押井は本人にその旨を伝えたが、富野の方は「お世辞だと思って聞き流した」とのこと(ただしこれがホンネかどうかは不明)。

  • ただしガンダムそのものに対しては、「僕は『ガンダム』にはものすごく違和感を感じるんだね。僕個人の志向性、戦争とか暴力とかの敷居の上にはあるんだけど」と語っている。

  • 出崎統監督作品、「劇場版エースをねらえ!」のビデオを公開直前に極秘入手し、何度も繰り返し見て「アニメを映画にする方法を学んだ」と発言している。

  • 実写の映画人では、ビートたけし|北野武に関心を持ち、作品のソフトはすべて所有している。一方、たけしは自らが審査委員長を務める東京スポーツ映画大賞の作品賞に『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』、主演女優賞に草薙素子を選出したことがある。

  • 少年時代からSF作家の光瀬龍のファンであり、高校時代にはファンレターを書いたことがきっかけで自宅に何度も訪問するまでになった。しかし、当時押井もかかわっていた学生運動について意見が対立し、それ以降は長く接することがなかったという。『天使のたまご』を制作した際に対談で約20年ぶりの再会を果たし、確執は解けた。光瀬が亡くなった時に押井は『アヴァロン』の撮影で海外へ渡航中であり葬儀に出席できなかった。この事を押井は大変悔いていた。光瀬が亡くなった翌年の[日本SF大会(ZERO−CON)西暦2000年開催]で押井が光瀬との思い出を語る企画が設けられた。その際、「今でも『百億の昼と千億の夜』は映画化したいと思っている」と発言している(企画書を書いたこともあったという)また押井はこの後[日本SF大会(HAMA−CON2)西暦2005年開催]においても企画に参加している。



    映画作品



    [ アニメ ]


  • 1982年 『劇場版ニルスのふしぎな旅』 (画コンテ|絵コンテ・演出(案納正美と共作)、諸事情で公開されず、野田真外曰く「事実上押井さんが監督」)

  • 1983年 『ダロス』(脚本・監督。世界初のOVA作品、一部地域で小規模の劇場公開を行った)

  • 1983年 『うる星やつら オンリー・ユー』 (監督・脚色・画コンテ|絵コンテ、実質上劇場監督デビュー作)

  • 1984年 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』 (監督・脚本・絵コンテ)

  • 1989年 『機動警察パトレイバー the Movie』 (監督・絵コンテ)

  • 1990年 『御先祖様万々歳!|Maroko / 麿子』 (原作・監督・脚本)

  • 1993年 『機動警察パトレイバー 2 the Movie』 (監督・絵コンテ)

  • 1995年 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』 (監督・絵コンテ)

  • 1997年 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 インターナショナル・ヴァージョン』 (監督)

  • 2000年 『人狼 JIN-ROH』 (原作・脚本) (監督は沖浦啓之)

  • 2002年 『ミニパト』 (脚本・音響プロデュース・演出コンセプト) (『WXIII 機動警察パトレイバー 』の併映。監督は神山健治)

  • 2004年 『イノセンス』 (監督・絵コンテ・脚本)

  • 2008年 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』 (監督)


    [ 実写 ]


  • 1987年 『紅い眼鏡 / The Red Spectacles』(監督・共同脚本)

  • 1991年 『ケルベロス 〜StrayDog〜 地獄の番犬』 (原作・監督・脚本)

  • 1992年 『Talking Head / トーキング・ヘッド』 (監督・脚本)

  • 2001年 『アヴァロン (映画)|アヴァロン』 (監督)

  • 2003年 『KILLERS キラーズ』 (「.50 Woman」の監督・脚本)

  • 2005年 『ローレライ (映画)|ローレライ』 (「B-29マーク」デザイン)

  • 2007年 『真・女立喰師列伝』(原作・総監修・『金魚姫 鼈甲飴の有理』『ASSALT GIRL ケンタッキーの日菜子』監督)


    [ オシメーション ]

    「オシメーション」とは、デジタルカメラで撮影した俳優の写真をデジタル加工し、アニメのパーツとして使用する技法のこと。従来からアニメーションの技法のひとつとして、実写の人間をコマ撮りする、「ピクシレーション(:en:pixilation)」がある。このピクシレーションをさらに発展させたものが、「オシメーション」である。「スーパーライブメーション」とも称する。「オシメーション」という名称はProduction I.G社長石川光久が「押井守の原点にもどって作ってもらおうという事で」「原点の赤ちゃんになってもらって、押井監督がおしめをはくような作品」という理由で命名し、『立喰師列伝』の制作会見の席上で西尾鉄也によるデフォルメ調の「オシメを穿いた押井守のイラスト」と共に発表された。* 2006年 『立喰師列伝』 (原作・監督・脚本)
    第63回ヴェネチア映画祭オリゾンティ部門に出品。



    テレビアニメ・OVA・ラジオドラマ・CDドラマ・ゲーム




    [ テレビアニメ ]


  • 1977年 『一発貫太くん』 (13・28話画コンテ|絵コンテ、28話・29・41話演出、演出デビュー作)

  • 1978年 『ヤッターマン』 (55・59話絵コンテ、後半以降総助監督、野村和史名義)

  • 1978年 『科学忍者隊ガッチャマンII』 (6・10・17話演出、6話絵コンテ)

  • 1979年 『魔女っ子チックル』 (43話絵コンテ、名輪丈名義)

  • 1979年 『ゼンダマン』 (3・7・10・16・18・24・25・28・32話演出、3・10・18・24・25・28・32・34・38・50話絵コンテ、30話修正絵コンテ)

  • 1980年 『ニルスのふしぎな旅』 (6・9・10・13・17・18・23・27・32・34・36・40・41・43・46・49・51話演出、9・17・18・19・23・27・32・36・40・41・46・49話絵コンテ)

  • 1980年 『オタスケマン』(14・31・37・41・44・48話絵コンテ、丸輪零名義)

  • 1981年 『ヤットデタマン』(3話演出、丸輪零名義)

  • 1981年 『名犬ジョリィ』 (21・23話演出・16・23話絵コンテ・21・23話演出助手、小川守弘名義)

  • 1981年 『ゴールドライタン』(27・33話絵コンテ)

  • 1981年 『まいっちんぐマチコ先生』(3話絵コンテ)

  • 1981年 『世界名作ものがたり』 (オープニング演出・絵コンテ)

  • 1981年 『うる星やつら』 (チーフディレクター・43・49・64・78・79・83・104話脚本、1・2・5・9・15・19・20・27・34・35・39・43・44・49・56・59・62・66・72・75・84・86・87・91・99・100・116・126・127・129話演出、1・2・5・9・15・19・20・27・34・35・43・44・45・46・59・66・84・87・94・99・102・104・106・113・116・127話絵コンテ)

  • 1982年 『ダッシュ勝平』(21話絵コンテ、丸輪零名義)

  • 1982年 『逆転イッパツマン』 (10・14・17・21・27・33・39話絵コンテ、丸輪零名義)

  • 1983年 『スプーンおばさん (アニメ)|スプーンおばさん』 (54話脚本・絵コンテ)

  • 1983年 『子鹿物語』 (7・12話絵コンテ)

  • 1987年 『赤い光弾ジリオン』 (2・15話絵コンテ、丸輪零名義)

  • 1989年 『機動警察パトレイバー』 (3・9・14・29・38話脚本)

  • 2004年 『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』 (ストーリーコンセプト)

  • 2004年 『風人物語』 (監修)

  • 2005年 『BLOOD+』 (企画協力)

  • 2007年 『PROJECT_MERMAID』 (監督、「アニクリ15」提供作品)


    [ OVA ]


  • 1981年 『りゅうの目のなみだ』 (演出・絵コンテ)

  • 1983年 『ダロス』 (監督・脚本・演出・絵コンテ(鳥海永行と共作))(日本初のOVA)

  • 1985年 『天使のたまご』 (原案・監督・脚本)

  • 1987年 『トワイライトQ2迷宮物件 FILE538』 (原案・監督・脚本)

  • 1988年 『機動警察パトレイバー』 (旧OVA・前期OVA) (監督・絵コンテ)

  • 1989年 『御先祖様万々歳!』 (原作・監督・脚本・絵コンテ)

  • 1990年 『機動警察パトレイバー』 (新OVA・後期OVA) (6・8・10・13話脚本)


    [ ラジオドラマ ]


  • 1987年 『紅い眼鏡を待ちつつ』(脚本)

  • 2006年 『ケルベロス 鋼鉄の猟犬 / Kerberos Panzer J?ger』(脚本)

  • 2007年 『acht acht / アハト・アハト』(脚本)


    [ CDドラマ ]


  • 1992年 『ゲーデルを夢見て〜録音監督1993年』

  • 1992年 『しあわせのかたち 水晶の滑鼠』

  • 1996年 『不帰の迷宮‐THE GREAT MAZE OF OVERKILL』(伊藤和典・千葉繁との3人によるリレー脚本)


    [ ゲーム ]


  • 1990年 『サンサーラ・ナーガ』(監督)

  • 1992年 『機動警察パトレイバー 〜98式起動せよ〜』(監督)

  • 1994年 『サンサーラ・ナーガ2』(監督・マッピング)

  • 2001年 『サンサーラナーガ1×2』(監督)

  • 2005年 『機動警察パトレイバー かむばっくミニパト』(総監修)



    その他映像作品


  • 1982年『関西電力』(CM絵コンテ×2本) ※『うる星やつら』のキャラクターを使ったもの

  • 1991年 『DOG DAYS』 (監督) (『ケルベロス 〜StrayDog〜 地獄の番犬』アップグレード版特別付録レーザーディスク|LD)

  • 1996年 『宇宙貨物船レムナント6』 (総合監修) (監督は万田邦敏)

  • 1998年『バトルトライスト』(アーケードゲーム、エンディング絵コンテ)

  • 2000年 『BLOOD THE LAST VAMPIRE』 (企画協力) (監督は北久保弘之)

  • 2003年 『DOG DAYS AFTER』(監督)(『Mamoru Oshii Cinema Trilogy / 押井守シネマトリロジー』特別付録DVD)

  • 2003年 『東京スキャナー』 (監修・CGパート絵コンテ) (監督は松宏彰)

  • 2003年 『東京静脈』 (監修) (監督は野田真外)

  • 2004年 『球体関節人形展 -- DOLLS of INNOCENCE --』 (監修)

  • 2005年 『めざめの方舟 「?鰉 SHO-HO (しょうほう)」「百禽 HYAKKIN (ひゃっきん)」「狗奴 KU-NU (くぬ)」』 (総合演出) (:en:Mezame No Hakobune、愛知万博)

  • 2005年 『アイオーン』 (演出、愛知万博公開、出演・最上和子、音楽・川井憲次、舞踏)

  • 2006年 『ズームイン!!SUPER』 (CM演出)

  • 2006年 『女立喰師列伝 ケツネコロッケのお銀 -パレスチナ死闘編-』 (原作・脚本・監督)



    著書など


  • 1985年 『天使のたまご 少女季』 (あらきりつこ・天野喜孝 共著)

  • 1994年 『Methods 押井守「パトレイバー2」演出ノート』

  • 1994年 『TOKYO WAR - 機動警察パトレイバー(前)』 富士見書房 ISBN 4829125527

  • 1994年 『TOKYO WAR - 機動警察パトレイバー(後)』 富士見書房 ISBN 4829125683

  • 1995年 『注文の多い傭兵たち』

  • 1995年 『攻殻機動隊絵コンテ集』 (士郎正宗 共著)

  • 2000年 『獣たちの夜 - BLOOD THE LAST VAMPIRE』 角川書店 ISBN 4043666012

  • 2000年 『犬の気持ちは、わからない 〜熱海バセット通信〜』 (桜玉吉 共著)

  • 2000年 『Avalon 灰色の貴婦人』 メディアファクトリー ISBN 4840107424

  • 2004年 『押井守の映像日記 TVをつけたらやっていた』

  • 2004年 『立喰師列伝』 角川書店 ISBN 4048735160

  • 2004年 『これが僕の回答である。1995-2004』

  • 2004年 『イノセンス創作ノート 人形・建築・身体の旅+対談』

  • 2004年 『すべての映画はアニメになる 【押井守発言集】』 徳間書店 ISBN 4198618283

  • 2004年 『押井守・映像機械論 【メカフィリア】』 (竹内敦志 共著)

  • 2005年 『TOKYO WAR MOBILE POLICE PATLABOR』 エンターブレイン ISBN 4757723660

  • 2005年 『「イノセンス」 METHODS 押井守演出ノート』

  • 2006年 『勝つために戦え!』

  • 2006年 『雷轟 rolling thunder PAX JAPONICA』 エンターブレイン ISBN 4757726694

  • 2006年 『立喰師、かく語りき』



    漫画原作


  • 1982年 『うる星やつら〜番外編〜父たち』 (原作) (作画は高田明美)
        『少年サンデーグラフィックうる星やつら3』に収録

  • 1984年 『とどのつまり…』 (原作・絵コンテ) (作画は森山ゆうじ)

  • 1987年 『西武新宿戦線異常なし』 (原作)(作画は近藤和久)

  • 1988年 『犬狼伝説 Kerberos panzer cop』 (原作)(作画は藤原カムイ)

  • 1992年 『西武新宿戦線異常なし DRAGON RETRIEVER』 (原作)(作画は大野安之)

  • 1994年 『セラフィム 2億6661万3336の翼』 (原作) (作画は今敏)

  • 1999年『犬狼伝説 Kerberos panzer cop 完結篇』 (原作)(作画は藤原カムイ)

  • 2002年 『殺人者たち The Killers』 (原作)

  • 2002年 『西武新宿戦線異状なし 番外編』 (原作)

  • 2003年 『RAINY DOGS 紅い足痕 / 犬狼伝説 紅い足痕』 (原作)(作画は杉浦守)

  • 2006年 『ケルベロス×立喰師 腹腹時計の少女』 (原作)(作画は杉浦守)



    没になった企画


  • シャーロック・ホームズ
     奇しくも登場人物が犬という設定が名探偵ホームズより前に企画されていた。ただ、ここでの本筋はギャグの度合いが大きいという。押井は絵コンテ担当であった。(パイロットフィルムもある)

  • フルムーン伝説 インドラ(キャラクターデザイン・高田明美、美術監督・中村光毅、小説版執筆・鳥海永行)
     英名「THE FULLMOON TRADITION INDRA」押井は企画・原案・絵コンテ・演出としての参加だった。世界展開を予定していたがイタリアとの制作方針が合わずやむなく中止に。その後、鳥海が小説としてまとめた。

  • アンカー(企画、監修、脚本・宮崎駿、小説版執筆・夢枕獏)
     高畑勲も監修として参加しプロットまで作ったがその際ストーリー展開の仕方について大喧嘩になってしまい、結局その段階でお流れになったという。

  • 突撃!アイアンポーク(原作・企画・監修・宮崎駿)
     宮崎駿の雑想ノート6「多砲塔の出番」を原作とし、押井は監督として参加してOVA化する予定だったが、諸事情により中止に。

  • 「押井版ルパン三世」

  • 押井版鉄人28号
     メカ造形が気に入った為、今でも機会を窺っているらしい。

  • 立喰師列伝
     当初はトワイライトQの一作品になるはずであり、その際のタイトルは「最後の立喰い」であった。

  • 西武新宿戦線異常なし
     原作として関わり、1987年に近藤和久作画で「B-CLUB」誌16〜21号に掲載されるが、序盤途中で頓挫。のちに大野安之作画で1992年に仕切りなおし再スタート。基本プロットは近藤版と共通ながら、一部キャラクターの性別や車両の設定が変更された。こちらは無事完結し単行本化されている。

  • 連続ドラマ版 御先祖様万々歳(脚本・じんのひろあき)

  • D(脚本・伊藤和典)
     樋口真嗣曰く「巨大怪獣もの」だという。大筋は「翼竜の大群が襲ってきて、自衛隊の新兵器がそれを撃墜する」というもの。樋口によると「とある怪獣映画の因縁を感じる」とのこと。

  • 犬狼伝説(当初OVA化の予定だった、後に人狼 JIN-ROHの原型となった)

  • ガメラ2 レギオン襲来
     「自衛隊のシーンを監督してほしい」と金子修介からオファーがあり押井も乗り気だったものの、スケジュールが合わず断念。

  • G.R.M. THE RECORD OF GARM WAR(ガルム戦記)(今でも再開のチャンスを窺っている)

  • PATLABOR LIVE ACTION MOVIE

  • NEXT〜未来は誰のために
     樋口曰く「巨大スーパーヒーロー物」らしい。企画自体は1992年頃から存在しており、「ガルム戦記」頓挫後にガルムで表現しようとしたテクニックを使い始動しようとするも程なく白紙になった。

  • エルの乱 鏖殺の島(監督のスケジュール等により製作延期)



    関連項目


  • ケルベロス・サーガ

  • Production I.G

  • 宮崎駿

  • 鈴木敏夫

  • 伊藤和典

  • 高田明美

  • 樋上晴彦

  • 出渕裕

  • ゆうきまさみ

  • 高橋留美子

  • 野田真外

  • 神山健治

  • 本広克行



    御用達声優


  • 千葉繁
     しかし、立喰師列伝のイベントで、「もう押井作品に出演することはないかも」と千葉が発言し押井も「そうだねぇ、もう千葉君も演出家だからね」とコメントしている。

  • 玄田哲章
     容姿を押井に気に入られ、それ以来キャラクターデザインのモデルにされる事が多い。一例として『犬狼伝説』の室戸文明。

  • 古川登志夫

  • 立木文彦
     実写では主役に負けないほどよくしゃべる役が多いが、アニメでは台詞の短い脇役(整備員の一人など)が多い。

  • 大塚明夫

  • 山寺宏一
     押井曰く「彼の最大の欠点は、(演技や声色が多彩すぎて)誰も彼の本当の声を知らない事である」とのこと。

  • 田中敦子 (声優)|田中敦子

  • 竹中直人
     「パトレイバー2」の荒川役で仕事をした後、対談し「また一緒にやりましょう!」と意気投合。「ミニパト」を製作する際、再び荒川を登場させるべく押井は竹中に連絡を取ろうとしたが、知らない間に携帯の電話番号が変わっており、その時は実現しなかった。だが、のちに「イノセンス」では連絡が取れ、出演が実現している。

  • 兵藤まこ
     声優デビュー作となった「天使のたまご」以来、大半の押井作品にアニメ・実写問わず出演している。アヴァロン制作時に、「ゴースト役が決まらなかったら彼女を起用する」と言うほど押井に惚れ込まれている。「ミニパト」の企画に関しても、彼女に主題歌を歌わせてそれをCD化できる事が引き受けた大きな目的だったと語っている。

  • 榊原良子
     キャラクターの表現方法の意見の食い違いで一時期絶縁したが、後に和解する。



    脚注





    外部リンク


  • 押井守公式サイト ガブリエルの憂鬱

  • 野良犬の塒 (押井守黙認ファンサイト)

  • 押井守小辞典

  • IMDb: Mamoru Oshii(英語)

  • DEIZ (『めざめの方舟』『立喰師列伝』などの制作に携わったプロダクション)

  • 押井守レトロスペクティヴ(パイロットとプロモーション)

    Quotation:Wikipedia - Article - History  License:GFDL
  • posted by れびゅんAE86 at 02:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年09月23日

    映画監督[円谷英二]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    円谷英二



    円谷 英二(つぶらや えいじ、本名:円谷 英一(つむらや えいいち)、1901年7月7日 - 1970年1月25日)は、福島県須賀川市生まれの特撮監督、映画監督。表記は圓谷英二で1949年の映画『幽靈列車』まで映画のクレジットで表記された。昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残し特撮の神様と呼ばれる。又、一家は全員カトリック教会|カトリック教徒で、墓地は東京都府中市 (東京都)|府中市の教会にある。



    来歴・人物


  • 苗字の同じ円谷幸吉(ただし「つむらや こうきち」と発音)も同市(当時は町)の出身である。

  • 明治34年(1901年)7月7日誕生。戸籍上は、7月10日生まれとなっている。なお、当時は現在と違って、実際の誕生日と戸籍上の誕生日が違う人が、少なからずいた。

  • 3歳の時に母を亡くし、父とも別れて祖母に育てられる。兄のように尊敬する5歳年上のおじの名が「一郎」だったので、遠慮して「英二」を名乗るようになったという。

  • 操縦士を夢見て飛行学校に入学する(ちなみに『サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード』のジェリー・アンダーソンや『スタートレック』のジーン・ロッデンベリーも航空関係の仕事についていた事がある)。だが一機しか無い飛行機の墜落や教官の死によって夢が破れ、電機学校(現・東京電機大学)を卒業する。

  • 花見の席で喧嘩の仲裁をした際、喧嘩相手だった天然色活動写真株式会社の枝正義郎に見初められ、映画界に入る。徴兵による兵役の後、衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画連盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。『稚児の剣法』(監督:犬塚稔、主演:長谷川一夫|林長二郎)でカメラマンとしてデビューする。

  • 「アイリス・イン」、「アイリス・アウト」、「フェイド・イン」、「フェイド・アウト」などの撮影手法を、日本で初めて使用した。

  • セットの奥行を出すために背景画を作る、ミニチュアセットを作る、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行なっている。足元から煙を出して臨場感を高め「スモーク円谷」と呼ばれた。しかし当時主流だった時代劇ではいまいちアイデアを発揮できず、後に犬塚稔とともに日活に移籍。

  • アメリカ映画なども熱心に鑑賞し、映画『キングコング (映画)|キングコング』を見たのもこの頃である。

  • スタア俳優の顔に照明で影を作り(当時はタブーであった)、その撮影手法を巡って日活の幹部と対立、東宝の前身であるJOに移る。

  • 1935年(昭和10年)2月〜8月、連合艦隊の練習鑑「浅間」に乗艦、長編記録映画『赤道を越えて』を撮影。これが監督第1作となった。また、ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルスの指示で製作された『新しき土』では、日本で始めてスクリーンプロセスの技術を使用し、山岳映画の巨匠として知られたアーノルド・ファンク監督を唸らせた。

  • しかし、特殊撮影の技師としての姿は当時、他のカメラマン達には理解できず、「何をやってるのかわからないズボラヤだ」と揶揄された。



    [東宝入社]


  • 1937年(昭和12年)、JOが別会社と合併して東宝が設立された際、森岩雄に招かれ、東宝東京撮影所に移る。が、他のカメラマン達から「ズボラヤをカメラマンと認めるわけにはいかない」と理不尽な反発を受け、森は円谷のために「特殊技術課」を設立し、課長待遇で迎えることとなった。しかしこれは、直属の部下のいない孤立無援の出発であり、のちに円谷も「部下なし課長」と自嘲気味に回想している。ここで円谷は、自前のオプチカル・プリンターの実験にかかる。

  • 1939年(昭和14年)「特殊技術課」に隣接する「線画室」に、鷺巣富雄が入社。鷺巣は、円谷から動画技術を指導され、隠れて円谷のオプチカル・プリンターの助手を務めた。

  • 日本が戦争に突入すると、当時の統制もあって、戦争映画を中心とした国策映画を撮るようになる。『海軍爆撃隊』で初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影。『燃ゆる大空』、『南海の花束』など特撮が重要な役目を果たす映画を製作。特撮を用いなかったものとしては『皇道日本』などが知られる。*1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まった後は、1942年(昭和17年)製作の『ハワイ・マレー沖海戦』。『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』、『あの旗を撃て』などの戦意高揚映画で特殊な撮影法やミニチュアの使用や合成技術など、この時期に特撮技術を駆使した。しかし戦争を奨励するかのような内容に苦悩する。

  • 1947年(昭和22年)連合国軍最高司令官総司令部の公職追放によって戦意高揚映画を撮影したことから東宝を追放され、円谷特殊技術研究所を設立、大映_(映画)|大映などの映画の特撮部門を請け負った。

  • 1952年(昭和27年)、日本独立後の公職追放解除で東宝に戻り『太平洋の鷲』を本多猪四郎監督とともに作りあげた。

  • 1954年(昭和29年)11月3日、アメリカのSF映画を参考にした『ゴジラ』の公開により一躍脚光をあびた。その後は、『獣人雪男』、『大怪獣バラン』『モスラ』『キングコング対ゴジラ』などの娯楽怪獣映画の特撮技術を監督した。

  • 1963年(昭和38年)、円谷プロダクション|株式会社円谷特技プロダクションを設立、日活映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の部分を製作。その後は、東京放送|TBSで『ウルトラQ』、『ウルトラマン』などを製作、「特撮の神様」とまで呼ばれるようになった。

  • 子供にサインを求められると、自分の名前を図案化した「スキーボーヤ」を描き、大人には「子供に夢を」と書いた。

  • 1970年(昭和45年)1月25日、狭心症により世を去った。。

  • アイディアマンであり、公職追放中はさまざまな玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。「自動スピード写真ボックス」(今で言う証明写真ボックス)などもその発明のうちである。

  • 映画音楽の伊福部昭とは飲み友達だったが、互いに名を知らず、「ゴジラ」の製作発表の場で、互いの素性を知ったという話がある。




    撮影的特撮と大道具的特撮

    円谷英二は戦前・戦中から知られた撮影が専門で特殊撮影をはじめたのである。スクリーンプロセスを得意とし、『ウルトラQ』制作時にオプチカル・プリンターを購入し、『ゴジラ』第一作の企画段階でストップモーション・アニメーション|モデルアニメーション撮影を主張するなど撮影側からのアプローチが多いのはそのためだろう。ゴジラシリーズによって「特撮の円谷」の名を不動のものにした一方、『ゴジラ』シリーズが結局(当事の撮影所用語で)ぬいぐるみ(着ぐるみ)撮影のみになっていったため日本で特撮といえば大道具的なイメージが強くなってしまった。余談だが「特撮」という言葉を創ったのも円谷である、それまでは「トリック撮影」などと呼ばれていた。東宝映画の“東宝マーク”を作ったのも円谷である。



    主な作品




    [ 戦争映画 ]


  • 『燃ゆる大空』 (1939年、東宝)

  • 『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年、東宝) … 円谷英二が特撮の手腕を大きく振るった作品の一つ。日本海軍|海軍の指示で、海戦の記録映像などを使うことは一切禁じられていたが、円谷の演出能力はそれをものともせず、手渡された小さな写真の波から、実物の大きさを正確に割り出した。そのあまりの完成度の高さに、戦闘シーンが記録映像をいっさい使わず、ミニチュアワークスと特撮のみで制作されていることを、連合国軍最高司令官総司令部が信じなかったと言われる伝説的作品。円谷の公職追放の原因ともなってしまう。

  • 『加藤隼戦闘隊』(1944年、東宝)

  • 『太平洋の鷲』(1953年、東宝)

  • 『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(1960年、東宝)

  • 『太平洋の翼』(1963年、東宝)

  • 『青島要塞爆撃命令』(1963年、東宝)

  • 『太平洋奇跡の作戦 キスカ』(1965年、東宝)

  • 『日本海大海戦』(1969年、東宝) … 特技監督として実質関わった最後の作品。


    [ SF映画 ]


  • 『透明人間現わる』(1949年、大映 (映画)|大映)

  • 『透明人間 (東宝)|透明人間』(1954年、東宝)

  • 『地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍』(1957年、東宝)

  • 『美女と液体人間』(1958年、東宝)

  • 『宇宙大戦争』(1959年、東宝)

  • 『電送人間』(1960年、東宝)

  • 『ガス人間第一号』(1960年、東宝)

  • 『妖星ゴラス』(1962年、東宝)

  • 『マタンゴ』(1963年、東宝)

  • 『海底軍艦 (映画)|海底軍艦』(1963年、東宝)

  • 『緯度0大作戦』(1969年、東宝・ドン=シャーププロ)


    [ 怪獣映画 ]


  • 『ゴジラ』シリーズ:1954年公開のシリーズ第1作『ゴジラ (1954)|ゴジラ』でのクレジットは「特殊技術 圓谷英二」。以降は「特技監督 圓谷英二」として1966年公開のシリーズ第7作『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』まで参加するが、次回作である1967年公開のシリーズ第8作『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』からは監修に回り、特技監督を有川貞昌にバトンタッチ。没後の1971年公開のシリーズ第11作『ゴジラ対ヘドラ』以降、1984年公開のシリーズ第16作『ゴジラ (1984)|ゴジラ』までの特技監督は中野昭慶に受け継がれた(ただし、中野が特技監督の名義でクレジットされるのは1973年公開のシリーズ第13作『ゴジラ対メガロ』以降)。

  • 『獣人雪男』(1955年、東宝)

  • 『空の大怪獣ラドン』(1956年、東宝)

  • 『大怪獣バラン』(1958年、東宝)

  • 『モスラ』(1961年、東宝)

  • 『宇宙大怪獣ドゴラ』(1964年、東宝)

  • 『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965年、東宝)

  • 『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966年、東宝)

  • 『キングコングの逆襲』(1967年、東宝)

  • 『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(1970年、東宝)(監修)


    [ その他の映画 ]


  • 『飛行機は何故飛ぶか』(1939年、東宝) 脚本も担当

  • 『エノケンの孫悟空』(1940年、東宝)

  • 『日本誕生』(1959年、東宝)

  • 『世界大戦争』(1961年、東宝)

  • 『大冒険』(1965年、東宝=渡辺プロ)


    [ テレビ作品 ]


  • 『ウルトラQ』、『ウルトラマン』(監修):納期に関係なく厳しいチェックをしていた。これが両作の高い完成度に貢献すると同時に、前者においては半年の放映期間の分を2年かけて事前に製作、後者は最終的に制作が放映に間に合わなくなり、打ち切りの原因となった。

  • 『快獣ブースカ』(監修)

  • 『ウルトラセブン』(監修)

  • 『マイティジャック#マイティジャック|マイティジャック』『マイティジャック#戦え!マイティジャック|戦え!マイティジャック』(監修・演出・編集)

  • 『怪奇大作戦』(監修)

  • 『恐怖劇場 アンバランス』(監修)



    演じた俳優


  • 西村晃 - ウルトラマンを作った男たち

  • 鈴木清順 - 私が愛したウルトラセブン

  • 滝田裕介 - ウルトラマンティガ

  • 佐野史郎 - ニッポン人が好きな100人の偉人

  • 毒蝮三太夫 - おしゃべり人物伝



    家族


  • 長男:円谷一(円谷プロ2代目社長、故人)
    孫:円谷昌弘(円谷プロ5代目社長)
    孫:円谷英明(円谷プロ6代目社長)
    孫:円谷浩(俳優、故人)
    孫:円谷一美(シンガーソングライター又紀仁美)

  • 次男:円谷皐(円谷プロ3代目社長→初代会長、故人)
    孫:円谷一夫(円谷プロ4代目社長→2代目会長)

  • 三男:円谷粲(円谷プロ副社長・円谷映像社長)
    孫:円谷優子(歌手)



    参考文献


  • 竹内博・山本真吾 編『円谷英二の映像世界』(実業之日本社、2001年完全・増補版) ISBN 4408394742

  • 円谷一 編著『円谷英二 日本映画界に残した遺産』(小学館、2001年復刻版) ISBN 4096814210

  • 竹内博 編『写真集 特技監督円谷英二』(朝日ソノラマ、2001年増補改訂版) ISBN 4257036389

  • 鈴木和幸『特撮の神様と呼ばれた男』(アートン、2001年) ISBN 4901006215

  • 円谷英二特撮世界』(勁文社、2001年) ISBN 4766938488

  • 「素晴らしき円谷英二の世界」編集委員会 編・2001円谷英二生誕100年記念プロジェクト 監修『素晴らしき円谷英二の世界 君はウルトラマン、ゴジラにどこで会ったか』(中経出版、2001年) ISBN 4806114995



    円谷英二を題材とした作品


  • 鈴木聡司『小説 円谷英二 天に向かって翔たけ』上、下(新風舎、2003年)
    : 上 ISBN 4797420707、下 ISBN 4797420715* 『夢宙人(むちゅうじん)ゴジラを造った男−円谷英二−』(漫画) 週刊漫画サンデー2006年35号から2007年5号まで連載。 
    : 原作・市川森一 作画・幸野武史



    関連項目


  • 日本映画

  • 特撮

  • 特撮映画



    外部リンク


  • オフィシャルサイト http://www.eiji-tsuburaya.gr.jp/

  • 円谷英二館』円谷ウルトラファンサイト

  • 暫定版 円谷英二監督生誕100周年記念関連出版リスト

  • 円谷英二特技監督に関する文献

  • 関連家系図

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    2007年09月22日

    映画監督[今敏]

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    今敏




    今 敏(こん さとし、1963年10月12日 - )は、アニメ監督、漫画家。北海道釧路市出身。

    国際映画祭への出品と一般的な支持からアニメ監督としての知名度が高い。なお、ギタリスト・スタジオミュージシャンの今剛は実の兄に当たる。



    来歴

    父の転勤により、小学4年生の時から中学2年生まで札幌で過ごす。漫画家の滝沢聖峰は札幌での同級生であり、親しい友人でもあった。北海道釧路湖陵高等学校時代にアニメーターを志し、武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン科に入学。大学在学中に、『週刊ヤングマガジン』(講談社)にて『虜 -とりこ-』(1984年)でちばてつや賞を受賞し漫画家としてデビュー。大学卒業後、『海帰線』(1990年)、『ワールドアパートメントホラー』(大友克洋による映画を漫画化したもの、デビュー作から大友作品による影響が強い)などを発表。その後アニメーションの仕事を手がけるようになり、『パーフェクトブルー』で監督デビューを果たした。『千年女優』で宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』と共に文化庁メディア芸術祭で大賞を受賞し話題となった。



    監督作品


  • 1997年『パーフェクトブルー』
    :初監督作品。同作は、ベルリン国際映画祭招待作品となる(非コンペ)。


  • 2001年『千年女優』
    :ドリームワークスにより世界配給された。


  • 2003年『東京ゴッドファーザーズ』
    :先の『千年女優』と共にアカデミー賞アカデミー長編アニメ賞|長編アニメ賞候補作品に選出され、『ファインディング・ニモ』と競った。


  • 2004年『妄想代理人』
    :WOWOWにてシリーズ化された。初めてのテレビアニメーションとなる。

  • 2006年『パプリカ (アニメ映画)|パプリカ』
    :原作は筒井康隆の小説。公開に先駆け第63回ベネチア映画祭のコンペティション部門に出品された。




    受賞


  • 2002年 『千年女優』
    第5回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞
    第57回毎日映画コンクール大藤信郎賞
    第6回ファンタジア映画祭最優秀アニメーション映画賞芸術的革新賞
    第33回シッチェス・カタロニア国際映画祭|シッチェス映画祭最優秀アジア映画作品賞

  • 2005年 『東京ゴッドファーザーズ』
    第7回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞
    第58回毎日映画コンクールアニメーション映画賞
    第24回ベルギー国際アニメーションフェスティバルプリベTV映画賞



    漫画作品


  • 『虜 -とりこ-』

  • 『海帰線』

  • 『ワールド・アパートメントホラー』

  • 『セラフィム 〜2億6661万3336の翼〜』(原案 押井守、未完、単行本未収録)



    外部リンク


  • KON'STONE(公式サイト)

  • 今 敏監督× 松尾 衡監督 対談


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    2007年09月21日

    映画監督[山田洋次]

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    映画ファン「映画監督・評論家編」
    山田洋次



    山田 洋次(やまだ ようじ、1931年9月13日 - )は、大阪府豊中市出身の映画監督、脚本家、立命館大学映像学部客員教授。川島雄三、野村芳太郎の助監督を経て、1961年に『二階の他人』でデビューする。以降、『男はつらいよ』シリーズをはじめとする膨大な数の人情劇を、実に精力的に発表し、絶大な大衆的人気を誇る。中国などでも、俳優・高倉健とともに日本映画界の第一人者としてよく知られている。日本共産党を強く支持している。いわさきちひろ美術館理事。作風は、落語等の影響を受けており、主に人間ドラマに焦点を当て、ユーモアとペーソスに溢れたものである。奇を衒った様な映像、性的描写や暴力表現等、安易に人目を惹く様な表現は抑制し、一般人や社会の逸れ者のささやかな日常生活に潜む喜びと哀しみを丹念に描く。日本で最も人気のある映画監督の一人だが、一部の評論家や、他の映画監督・演出家等には新鮮な映像手法や凝ったストーリー性に欠けると言われる。蜷川幸雄などのアンチも多い。



    来歴

    1931年、大阪府豊中市生まれ。南満州鉄道|満鉄のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした。終戦後の1947年、大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響している。旧制宇部中(現在の山口県立宇部高等学校)を経て山口高等学校 (旧制)|旧制山口高等学校(現在の山口大学)在学中に学制改革を経験。新制の東京都立小山台高等学校から東京大学法学部に入学。怠学による出席日数不足で中退するつもりであったが、1954年に東京大学を卒業して、松竹に入社する。野村芳太郎作品の脚本家・助監督を務めた。1961年、『二階の他人』で監督としてデビューした。大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった気鋭の新人が松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。ヌーヴェルヴァーグ派が松竹から独立して行く中、松竹大船調路線の後継者として『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』等のコメディを中心とした作品で企業内監督の道を歩\xA1 $`!#1969年、『男はつらいよ』を発表。その後27年間に全48作が製作される大ヒットシリーズとなり、国民的映画とまで言われた。しかし、車寅次郎役である渥美清の体調が優れなくなってからは、甥の満男を主役としたサブストーリーが作られ、さらに渥美の病状が深刻になってからは、年2回作られていた『男はつらいよ』シリーズを年1回に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らす決断をするが、松竹の経営事情などにより映画の制作は続けざるをえなかった。第47作と第48作は、ドクターストップがあったものの無理に出演して貰ったものである。1996年8月13日、「寅さんとのお別れの会」で弔辞を読んだ。このように渥美とは長年いっしょではあったものの渥美の家族や個人的な連絡先は知らなかったと言う。知るようになったのは寅さんとのお別れの会に出席した後だったらしい。最終作の撮影現場で体調を崩して楽屋で寝込んでいた所、その頃は既に自分の死が近いことを悟っていたのか渥美清から「山田さん大丈夫ですか?あなたは体を大事にして長生きしなければなりませんよ。」と言われぁ ?$N$,:#$G$b?4$K;D$C$F$$$k$H8@$&!#0/H~$N;`5n$K$h$C$FCK$O$D$i$$$! h%7%j!<% :$r<:$C$?4年後には大船撮影所が閉鎖され、監督としてメガホンを取る機会も減ってしまった。近年ではロケ地に行くと「男はつらいよを何本でも作れそうだ」と語っている。2002年、藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』を発表する。山田にとって、『運がよけりゃ』に続く2度目の時代劇であり、藤沢作品を初映画化したものであった。他の時代劇では無視され続けてきた“位の低い”武士の苦悩を描いた物語である。構想に10年を掛け時代考証に徹底して拘った。登場人物が綺麗な新品の服ではなく、着古した古着を着ていたり、毎日月代を剃るはずが無いから、剃った部分に髪が生えてくる等の実に細かい部分をリアルに丹念に描いた。新鮮な時代劇と話題を呼び大ヒットとなった。真田広之と宮沢りえの演技力もあって、出色の時代劇と評価され、日本の映画各賞を独占した。1990年代後半以降低迷していた宮沢の見事な復活作ともなった。2003年2月、第57回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品される。2004年、「第76回アカデミー賞外国語映画賞」の候補になったが受賞はならず。同年、再び藤沢原作の時臓 e7`!X1#$77u 鬼の爪』を発表し、またもベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品される。2006年9月、大相撲横綱審議委員の山田は、「部員不足解消に役立つなら」と、OBである東京大学相撲部の名誉顧問となった。京都大学との交流戦を観戦し、「初心者にしか見えない学生が鼻血を出しながら立ち向かう姿が愛しい」と興奮した。2007年は自身の監督作『幸福の黄色いハンカチ』がハリウッドでリメイクされる事が決定。高倉健の演じた主人公はオスカー俳優・ウィリアム・ハートが演じる。



    学歴


  • 旧制宇部中学校(現在の山口県立宇部高等学校)卒業

  • 旧制山口高等学校に学制改革のため1年間のみ在学の後、東京都立小山台高等学校卒業

  • 東京大学法学部卒業



    受賞歴


  • 日本アカデミー賞監督賞(第1回、第15回、第17回、第26回)

  • 菊池寛賞

  • 芸術選奨文部大臣賞

  • 日本映画復興賞

  • ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞監督賞

  • 毎日映画コンクール監督賞

  • 毎日芸術賞

  • 山路ふみ子映画賞

  • 紫綬褒章(1996年)

  • 文化功労者(2004年)



    主な作品


  • 「男はつらいよ」シリーズ(全48作、1969年~1995年)

  • 「釣りバカ日誌」シリーズ(1988年~) 脚本のみ

  • 「下町の太陽」(1963年)

  • 「馬鹿まるだし」(1964年)

  • 「馬鹿が戦車でやってくる」(1964年)

  • 「なつかしい風来坊」(1966年)

  • 「吹けば飛ぶよな男だが」(1968年)

  • 「家族 (映画)|家族」(1970年)

  • 「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)

  • 「遥かなる山の呼び声」(1980年)

  • 「キネマの天地」(1986年)

  • 「ダウンタウン・ヒーローズ」(1988年) ベルリン映画祭コンペティション

  • 「息子 (映画)|息子」(1991年)

  • 「学校 (映画)|学校」(1993年)

  • 「虹をつかむ男」(1996年)

  • 「学校II」(1996年)

  • 「虹をつかむ男 南国奮斗篇」(1997年)

  • 「学校III」(1998年)

  • 「十五才 学校IV」(2000年)

  • 「たそがれ清兵衛」(2002年) 米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ベルリン映画祭コンペティション、ハワイ映画祭グランプリ、香港電影金像奨アジア映画賞

  • 「隠し剣 鬼の爪」(2004年) ベルリン映画祭コンペティション、イスタンブール映画祭グランプリ

  • 「祖国」(2005年) 原作・脚本のみ

  • 「出口のない海」(2006年) 脚本のみ

  • 「武士の一分」(2006年) ベルリン映画祭招待作品



    関連項目


  • 日本の映画監督一覧

  • 田坂具隆



    参考文献


  • 山田洋次の<世界>(2004年、切通理作著、筑摩書房刊)



    外部リンク


  • 日本映画データベース


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    2007年09月20日

    映画監督[快楽亭ブラック]

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    映画ファン「映画監督・評論家編」
    快楽亭ブラック



    快楽亭 ブラック (かいらくてい ぶらっく)は、落語家。初代 (1858年 - 1923年)本名=ヘンリー・ジェイムズ・ブラック。日本名=石井貎刺屈(ぶらっく)。オーストラリアアデレード生まれ。----
    二代目 (当代) (1952年5月26日 - )東京生まれ。本名=福田秀文。 父がアメリカ人、母が日本人のハーフ。1969年、立川談志に弟子入りし前座名立川ワシントンを名乗る。ジョニー三ノ介と改名し、1972年に桂三枝門下に入って桂三ノ介、桂三Qと改名。1979年に談志門下に戻って立川談トンで二ツ目に昇進する。以降、立川カメレオン、立川レーガン、丹羽守、英国屋志笑、立川レフチェンコ、立川世之介、立川小錦、快楽亭セックス、立川マーガレット、立川平成と改名する。1992年に二代目快楽亭ブラックを襲名して真打に昇進する。2000年度芸術祭優秀賞受賞。自他共に認める日本一の日本映画通として、映画評論家としても活躍。その守備範囲は歴史的な名作から低予算のピンク映画まで、幅広い。洋画もちゃんと観ている。映画作品を題材にした創作落語の独演会も行っている。




    著作リスト
    * (立川平成名義。立川談之助と共著)『禁断のブラック・ギャグ―超過激に笑っちゃう!』 ISBN 4584303223

  • 『日本映画に愛の鞭とロウソクを―さらば愛しの名画座たち』 ISBN 4900779369

  • 共著 『''Japanese Movie Posters: Yakuza, Monster, Pink, and Horror''』 ISBN 0972312404 ISBN 0972312455



    外部リンク


  • 連載コラム @日本映画専門チャンネル

  • 快楽亭ブラック・ニュースマガジン (旧サイトのキャッシュ)

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    2007年09月19日

    映画監督[大林宣彦]

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    大林宣彦



    大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年1月9日-)は"映像の魔術師"とも称される映画監督。自主製作映画の先駆者として、コマーシャル|CMディレクターとして、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた。広島県尾道市土堂出身。広島県立尾道北高等学校|尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報研究科教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。




    来歴

    代々続く医家の長男として生まれる。「尾道出身」として有名だが、講演会等で大林自らが述べているところによれば、出生時には父親が岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)に勤務していたため、「生誕地」は岡山市内である。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授で、国際ソロプチミスト尾道の初代会長。2歳でブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳で写真フィルム|フィルムに絵を刻んでアニメーションを作ったこのとき作った『マヌケ先生』を元にして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が作られた。(原作・総監督:大林宣彦、監督:内藤忠司)。15歳の時に小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。16才の夏休みに福永武彦の「草の花」を読み感銘を受ける。いつかフレデリック・ショパン|ショパンのピアノ曲のような映画を作りたい、と想いそれは30年後『さびしんぼう_(映画)|さびしんぼう』で実現する。1956年上京し、成城大学在学中かぁ i8ミリ|8mmで作品を発表。自主製作映画の先駆者として早くから名前を知られた。1960年大学は中退。1963年に初の16ミリ|16mm作品『喰べた人』がベルギー国際映画祭で審査員特別賞。『尾道』、『中山道』、『食べた人』、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』、『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』などがアンダーグラウンド (文化)|アングラブームに乗って反響を呼ぶ。60年代後半からは草創期のテレビコマーシャル(CM)にCMディレクターとして本格的に関わり始め、あまりのヒットに社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」、ラッタッタ元々はイタリア語で「1、2、3」を言わせるところだったのを、それじゃあ面白くないと「現場のノリ」で「ラッタッタ」なる掛け声を作った。その際、ソフィア・ローレンに「これは、日本語の1、2、3だ」と説明したら、「2と3は同じように聞こえるのだが」と質問され、飄々と「それはイントネーションで区別する」ぁ HEz$($?!"$H$5$l$k!#。のかけ声で話題を呼んだ「本田機 ;8&9)6H
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    2007年09月18日

    映画監督[五所平之助]

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    五所平之助



    五所 平之助(ごしょ へいのすけ、本名・平右衛門、1902年1月24日−1981年5月1日)は、昭和期の映画監督。日本最初の国産トーキー映画『マダムと女房』の監督として有名である。東京神田区鍋町(現・千代田区内神田3丁目)に、乾物問屋の息子として生まれる。慶應義塾高等学校|慶応義塾商工学校卒業。父の友人の息子である島津保次郎の口添えもあり、1923年、松竹蒲田撮影所へ入社する。島津の助監督を経て、1925年、原作、脚本も手がけた『南島の春』で監督デビューした。引き続き、『彼女』、『恥しい夢』、『村の花嫁』など、ユーモアあふれたそれでいて叙情性豊かな作品を次々と発表する。この作風は、小市民の生活をユーモラスに描いた『マダムと女房』において頂点に達する。また、山本有三原作の『生きとし生けるもの』においては社会派的側面を強く打ち出し、戦時中に撮った『新雪』は興行的にも大ヒットとなった。戦後になると、椎名麟三の『無邪気な人々』を映画化した『煙突の見える場所』を発表し、「新スタイルの笑い」を提供した。また、ベストセラーとなった原田康子ぁ N!XHT2N!Y$r5W2fH~;R$G$"$k!#GP?M$H$7$F$bCN$i$l$F$*$j!"!V5WJ]EDK|B@O:|春燈」同人として「五所亭」という俳号で活躍した。1941年、紫綬褒章、1947年勲四等旭日小綬章受章。



    代表作



  • 南島の春(1925年)

  • 彼女(1926年)

  • 寂しき乱暴者(1927年)

  • 恥しい夢(1927年)

  • からくり娘(1927年)

  • 村の花嫁(1928年)

  • マダムと女房(1931年)

  • 伊豆の踊子(1933年)

  • 十九の春(1933年)

  • 生きとし生けるもの(1934年)

  • 人生のお荷物(1935年)

  • 新道(1936年)

  • 木石(1940年)

  • 新雪(1942年)

  • 今ひとたびの(1947年)

  • 煙突の見える場所(1953年)

  • 愛と死の谷間(1954年)

  • 鶏はふたたび鳴く(1954年)

  • たけくらべ(1955年)

  • 黄色いからす(1957年)

  • 挽歌(1957年)

  • 白い牙(1960年)

  • 猟銃(1961年)

  • かあちゃんと11人の子ども(1966年)

  • 女と味噌汁(1968年)

  • 明治はるあき(1968年)


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    2007年09月17日

    映画監督[篠原哲雄]

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    篠原哲雄



    篠原 哲雄(しのはら てつお、1962年2月9日 - )東京出身の映画監督。明治大学法学部卒。専攻は法社会学、法文化論。「月とキャベツ」が初の劇場用長編作品となる。以降、「洗濯機は俺にまかせろ」(1999)、「はつ恋」(2000)、「命」(2002)等、現在日本を代表する映画監督の1人。




    監督作品


  • 亀顔少年(1984年)

  • RUNNING HIGH(1989年)

  • 草の上の仕事(1993年)

  • バカヤロー!V エッチで悪いか−天使たちのカタログ(1993年 カラー31分 ビデオ作品(オムニバスの1本))

  • YOUNG & FINE(1994年、ツインズ)

  • 歪んだ欲望−Emotional Blue(1995年、アルゴピクチャーズ)

  • 月とキャベツ(1996年、エースピクチャーズ、西友)- 出演、山崎まさよし、真田麻垂美

  • 悪の華(1996年、KISS)- 出演、大沢樹生、原久美子、大杉漣、浅沼順子、原サチコ、並木史郎、横山あきお

  • 恋、した。 オールドタウンで恋をして(1997年、テレビ東京、アミューズ)- 出演、小林麻子

  • ふたりのアリス(1997年 フジテレビジョン|フジテレビ、ROBOT)- 出演、浜丘麻矢、鶴見辰吾

  • なっちゃん家 なっちゃん家のお客さん(1998年、テレビ朝日、アミューズ)

  • 洗濯機は俺にまかせろ(1999年、ボノボ、スターボード)-出演、筒井道隆、富田靖子、小林薫

  • きみのためにできること(1999年、日活)- 出演、柏原崇、真田麻垂美、川井郁子、岩城滉一、大杉漣、田口浩正

  • はつ恋(2000年、東映)- 出演、田中麗奈、原田美枝子、平田満、真田広之

  • 死者の学園祭(2000年、東映)−原作、赤川次郎 −出演、深田恭子、加藤雅也、内田朝陽、根津甚八 (俳優)|根津甚八

  • 張り込み(2001年、JRSS)−出演、若林しほ、小市慢太郎、堺雅人、榊ゆりこ、木村つかさ、伊沢麿紀、伊藤洋三郎

  • 女学生の友(2001年7月BOXin東中野、BS-i、東宝)−原作、柳美里 −出演、山崎努、前田亜希、野村佑香、山崎一、毬谷友子、中村久美、山田辰夫

  • 命 (2002年、命製作委員会(東京放送|TBS、東映、小学館、TOKYO FM、朝日新聞))−原作、柳美里 −出演、江角マキコ、豊川悦司、筧利夫、寺脇康文、平田満、麻生久美子、樹木希林

  • 木曜組曲(2001年、和光インターナショナル)−出演、鈴木京香、原田美枝子、富田靖子、西田尚美、加藤登紀子、浅丘ルリ子

  • けん玉(2002年)−出演、山崎まさよし、篠原涼子、山田幸伸、氏家恵、あがた森魚

  • オー・ド・ヴィー(2002年、オー・ド・ヴィー製作委員会)−出演、岸谷五朗、小山田サユリ、鰐淵晴子、寺田農、松重豊、朝加真由美、根岸季衣



    外部リンク


  • 篠原哲雄オフィシャルホームページ

  • 「命」公式サイト

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    2007年09月16日

    映画監督[鈴井貴之]

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    鈴井貴之



    鈴井 貴之(すずい たかゆき 1962年5月6日 - )は、北海道を中心に活躍する「ハイパーメディアパーソナリティー」。愛称は「ミスター」。



    概要

    北海道赤平市出身。血液型O型。幼少期は病弱で入退院を繰り返す日々を送る。そのため泳ぐことはできない。

    「CREATIVE OFFICE CUE」の代表取締役社長で、舞台やテレビ番組の企画・脚本などをこなす。加えて、自らも役者として活躍する。小さい頃から8ミリカメラで映画を撮るのが好きだった彼は、北海学園大学法学部に入学。しかしそこで演劇に出会い、酒と演劇に溺れ大学を中退。その後いくつかの劇団を立ち上げた後、劇団「OOPARTS(1990年旗揚げ、1998年解散)」を主宰し、地元北海道では「1000人の客を集められる男」として演劇界にその名を知られた。彼を有名にしたのは、自ら企画し、所属俳優の大泉洋などとともに出演した北海道テレビ放送(HTB)制作の深夜番組「モザイクな夜」や「水曜どうでしょう」である。北海道以外でもその内容が話題になり、道内での本放送が終了した後も、関東UHF局で放送されたり、DVDによる販売では記録的な大ヒットを飛ばすなど、もはや知名度は大泉洋とともに全国区となっている。

    最近では映画監督としても活躍も目覚しい。

    しかし、いつになっても初心を忘れることはなく、若手には「俺は40になっても『タコ星人』をやってるんだぞ!」とはっぱをかけている。2004年8月にはアテネに行き、北海道テレビ放送のアテネオリンピック (2004年)|五輪応援企画「アテネGEKIJO」の現地メインキャスターを、同局の小野優子アナと務めた。また2004年11月から大韓民国|韓国へ、クァク・キョンテク監督の新作『台風』撮影終了までの予定で映画留学する。帰国予定は8月末。

    韓国に留学中だが、清水区|清水と仙台市|仙台で行われた銀のエンゼル (映画)|銀のエンゼルの舞台挨拶やCOMPOSER札幌市|札幌・広島市|広島公演、はたまた愛娘の運動会と、結構な頻度で一時帰国している。

    帰国後、初めてファンの前に姿を現すのは、2005年9月2日に日比谷公会堂で開催される「TEAM-NACS凱旋公演 COMPOSER-響き続ける旋律の調べ- クローズドサーキット」になる模様である。



    手がけた番組


  • 北海道テレビ放送
    「おにぎりあたためますか」(企画)
    「水曜どうでしょう」 (企画・出演)
    「ぽっぷこ〜んシネマ」
    「ドラバラ鈴井の巣」
    「週刊Nanだ!Canだ!」
    「モザイクな夜」

  • 札幌テレビ放送
    「1×8いこうよ!」(構成)

  • エフエム北海道|AIR-G'
    「GO・I・S」
    「KING GO・I・S」



    手がけた映画


  • 「man-hole」(2001年・監督)

  • 「river」(2003年・監督)

  • 「銀のエンゼル」(2004年・監督)
    銀のエンゼルは2004年冬全国公開。小日向文世 主演



    音楽


  • 「DA.BE.SA (NORTH END x AYUMI)」(1994年・作詞・歌)
    "AYUMI"こと鈴井亜由美は奥様(CREATIVE OFFICE CUE副社長)。



    呼び名


  • ミスター‐いちばん一般的な呼ばれ方。由来は下記参照。

  • 鈴井さん‐水曜どうでしょう以外ではこう呼ばれることが多い。

  • 社長‐CUEのメンバーが番組内で鈴井氏のことをこう呼ぶときがある。

  • 映画監督|監督‐映画を3本撮影したことからこう呼ばれる。

  • スズイカンドクニ‐留学先の大韓民国|韓国ではこう呼ばれている。

  • ダメ人間‐決して悪い意味ではない。水曜どうでしょうのサイコロの旅で、かなりの確率で九州と四国&深夜バスを引き当てたことから由来する。ちなみに「僕はダメ人間じゃない」と言った直後にとんでもないところを引き当てている。(カントリーサインの旅2より)

  • インキーマン‐陰気ではない。アメリカ大陸横断で、ミスターが車の鍵を車内に置いたままロックしてしまったこと(インキー‐in key)から。ちなみに部屋までインキーしてしまったので部屋にも入れなくなった。

  • おっさん‐40歳を過ぎたことからこう呼ばれることが目立っている。

  • リップさん‐唇が厚いため。



    ミスターの由来

    北海道テレビ放送|HTBの番組水曜どうでしょうの企画のひとつ「212市町村カントリーサインの旅」の中で共演者:大泉洋が「ミスターどうでしょう、鈴井貴之」といったことに始まる。ちなみに「ヨーロッパ21ヶ国完全制覇」の中でフランスに立ち寄った際は「ムッシュどうでしょう」となっている。初期は?どうでしょうのすべての不幸はこの人のせいだ?という意味で呼ばれていたが、現在は?鈴井貴之は常に水曜どうでしょうの最先端を走っていて、他のメンバーは常に鈴井の背中を見て走ってきた。まさに水曜どうでしょうの象徴だ。?となっている。道外では鈴井貴之の一般的な呼称として「ミスター」が用いられることが多いが、道内ではどうでしょうの話題に限って「ミスター」が用いられる。



    関連項目


  • CREATIVE OFFICE CUE (社長を務める会社)

  • 大泉洋(所属のローカルタレント)

  • オクラホマ (お笑い)|オクラホマ(所属のローカルタレント)

  • 音尾琢真(所属のローカルタレント)

  • 小橋亜樹(所属のローカルタレント)

  • 佐藤重幸(所属のローカルタレント)

  • 森崎博之(所属のローカルタレント)

  • 安田顕(所属のローカルタレント)

  • 北海道テレビ放送 (企画?出演している番組が多い北海道のローカル局)

  • 放送作家

  • 脚本家



    外部リンク


  • 北海道テレビ:HTB online

  • CREATIVE OFFICE CUE オフィシャルサイト

  • 映画「銀のエンゼル」公式サイト

  • AIR-G'・エフエム北海道
    KING GO・I・S(ゴイス)

  • ミスターァ!

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    2007年09月15日

    映画監督[崔洋一]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    崔洋一



    崔 洋一(さい よういち、チェ・ヤンイル、???、男性、1949年7月6日 − )は、映画監督。長野県佐久市出身。1968年東京朝鮮中高級学校を卒業。東京綜合写真専門学校中退後、照明助手として映画界に入り、1976年『愛のコリーダ』(監督大島渚)、1978年『最も危険な遊戯』(監督村川透)の助監督を務める。1981年テレビドラマ「プロハンター」で監督となり、1993年に手がけた『月はどっちに出ている』で映画賞総なめの評価を得る。また、1996年には大韓民国|韓国留学。その一方で1999年には俳優として『御法度 (映画)|御法度』(監督大島渚)に近藤勇役として出演。近年は日本テレビ放送網|日本テレビの「午後は○○おもいッきりテレビ」やテレビ朝日の「ビートたけしのTVタックル」などにコメンテーターとして出演することも多く、辛口コメントで有名。現在、日本映画監督協会理事長。2007年4月、宝塚造形芸術大学教授に就任予定。



    代表作


  • 1983年『十階のモスキート』(ニュー・センチュリー・プロデューサーズ)

  • 1983年『性的犯罪』(日活|にっかつ)

  • 1984年『いつか誰かが殺される』(東映、角川春樹事務所)

  • 1985年『友よ、静かに瞑れ』(角川春樹事務所)

  • 1987年『黒いドレスの女』(角川春樹事務所)

  • 1988年『花のあすか組!』(角川春樹事務所)

  • 1989年『Aサインデイズ』(大映 (映画)|大映)

  • 1991年『襲撃 BURNING DOG』(東映ビデオ)

  • 1993年『J・MOVIE・WARS 月はどっちに出ている』(日本衛星放送、ヒルヴィラ)

  • 1993年『月はどっちに出ている』(シネカノン)

  • 1995年『平成無責任一家 東京デラックス』(アミューズ、シネカノン、テレビ東京)

  • 1995年『マークスの山』(松竹、アミューズ、丸紅)

  • 1998年『犬、走る DOG RACE』(東映ビデオ)

  • 1999年『豚の報い』(サンセントシネマワークス)

  • 2002年『刑務所の中』(ビーワイルド、衛星劇場)

  • 2004年『盲導犬クイールの一生|クイール』(松竹、テレビ東京、テレビ大阪、衛星劇場ほか)

  • 2004年『血と骨』(「血と骨」製作委員会)

  • 次回作『カムイ外伝』



    関連項目


  • 日本の映画監督一覧

  • BATTLE TALK RADIO アクセス(TBSラジオ。2003年9月ごろまでコメンテーターとして出演、不定期)

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    2007年09月13日

    映画監督[寺山修司]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    寺山修司




    寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は、劇作家、歌人、詩人、小説家、映画監督、競馬評論家など幅広い分野で活躍した人物である。



    略歴


  • 1935年(昭和10年)12月10日生まれ。
    母ハツによれば、青森県弘前市紺屋町生まれ。
    寺山によれば、「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」など、出身地に関して異なった記述が見られる。寺山のこうした記述には多分に創作が混じっているといわれる。
    戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、母ハツは産後保養していたため」という。本籍地は青森県上北郡六戸村(現:三沢市)。
    父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。父・八郎は当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。

  • 1941年(昭和16年)八戸市へ転居。
    父八郎出征(その後戦死)のため、母と三沢市へ疎開。母はその後九州で働くために青森市の親類に預けられる。青森市マリア幼稚園入園。

  • 1942年(昭和17年)青森市立浦町尋常小学校(現:浦町小学校)入学。

  • 1945年(昭和20年)青森空襲。青森市街地をほぼ焼き尽くす米軍による集中攻撃だった。母ハツとともに逃げ惑い焼け出される。家も焼け一面焼け野原。
    終戦後はハツの兄を頼り六戸村古間木(現:三沢市)の古間木駅前(現:三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働く。
    米軍差し押さえの民家に移る。

  • 1948年(昭和23年)古間木中学校入学。
    秋、青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校。

  • 1951年(昭和26年)青森県立青森高等学校進学。文学部に所属。全国学生俳句会議結成。同期生に沢田教一。

  • 1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。山田太一とは同級。在学中から歌人として活動。18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。

  • 在学1年足らずで中途退学。

  • 1967年(昭和42年)演劇実験室・天井桟敷を結成。劇作家・詩人・歌人・演出家として活躍。

  • 1970年(昭和45年)3月24日、人気漫画?あしたのジョー?の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務める。

  • 1971年(昭和46年)『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出した。

  • 1983年(昭和58年)東京都杉並区永福在住中に、河北総合病院にて、敗血症で死去。。その後、天井桟敷の劇団員を中心に演劇実験室「万有引力」結成。現在に至る。青森県三沢市に寺山修司記念館あり。相当な人見知り癖があったと、美輪明宏は述懐している。



    歌集


  • 『空には本』(1958年)

  • 『血と麦』(1962年)

  • 『田園に死す』(1965年)

  • 『テーブルの上の荒野』(1971年 『寺山修司全歌集』収録)



    句集


  • 寺山修司青春歌集






  • 長編叙事詩・李庚順

  • 未刊詩集ロング・グッドバイ

  • 寺山修司少女詩集



    評論など

    幅広く評論をしており、ジャンルは漫画、歴史人物、小説、映画などジャンルは広い。
    竹宮恵子の「風と木の詩」1巻に寺山修司の解説有り、また「サザエさんの性生活」について書いた事がある。



    競馬

    寺山修司は競馬への造詣も深く、『ユリシーズ』という競走馬の馬主でもあった。またスポーツ報知|報知新聞競馬面に1970年10月から1983年4月まで『風の吹くまゝ』というタイトルで予想コラムを書いていたことでも知られる。騎手では吉永正人(故人)を贔屓にしていた。『馬敗れて草原あり』『競馬無宿』『競馬への望郷』など、競馬に関する著作も多い。またハイセイコーやテンポイントへ捧げる詩も作った。寺山修司は日本中央競馬会(JRA)のCMにも出演し、『カモメは飛びながら歌を覚える。人生は遊びながら年老いていく』と、本人自ら台詞を喋るシーンもあった。



    脚本




    [ ラジオ ]



    [ テレビ ]


  • 一匹

  • ミュージカル わが心のかもめ(1966年(昭和41年)3月22日放送/NHK)


    [ 映画 ]

    (監督作品を除く)

  • みな殺しの歌より 拳銃よさらば(1960年)

  • 乾いた湖(1960年)

  • わが恋の旅路(1961年)

  • 夕陽に赤い俺の顔(1961年)

  • 涙を、獅子のたて髪に(1962年)

  • 初恋・地獄篇(1968年)

  • 無頼漢(1970年)

  • サード(1978年)

  • 怪盗ジゴマ 音楽篇(1988年)


    [ 長編 ]




    演劇


  • 「演劇の文学ばなれ(戯曲ばなれ)」を主張し続けた。戯曲に書かれて完結した世界を、舞台でそのまま再現することが演劇なのか。「一度、『戯曲』として書き、きちんと幕を切ってしまったものを、どうしてもう一度、生身の人間を使って現場検証してみようとするのか」。演劇は、演劇という独自の表現なのであり、創造のきっかけとなるキーワードとしての「台本」(「戯曲」とは異なる)のみ許される、とした。

  • 演劇の重要な構成要素であるはずの観客に焦点を当てる作品も上演した(「観客席」)。「俳優座や文学座があって、どうして観客座という名の劇団がないのか」。

  • 彼の考え方は生前の演劇界においては異端視され、主に海外で評価されることになった。没後20年以上経った現在では、数多くの劇団が寺山作品を上演し、新たなる観客との出会いを試み続けている。

  • 当時の天井桟敷は、唐十郎の赤テント、佐藤信の黒テント、鈴木忠志の早稲田小劇場、と共に「アングラ四天王」と呼ばれ、大きな支持を受けた。


    [ 主な作品(一部共同台本、共同演出を含む) ]


  • 毛皮のマリー

  • 犬神

  • 邪宗門

  • 阿片戦争

  • 盲人書簡

  • ノック

  • 中国の不思議な役人

  • 青ひげ公の城

  • 身毒丸

  • 奴婢訓

  • レミング



    映画




    [ 長編 ]


  • 書を捨てよ町へ出よう(1971年)

  • 田園に死す(1974年)

  • ボクサー(1977年)

  • 草迷宮 (映画)|草迷宮(1979年、1983年)

  • さらば箱舟(1984年)


    [ 短編 ]


  • 猫学(キャットロジー)

  • 檻囚

  • トマトケチャップ皇帝

  • ジャンケン戦争

  • ローラ

  • 蝶服記

  • 青少年のための映画入門

  • 迷宮譚

  • 疱瘡譚

  • 審判



  • 消しゴム

  • マルドロールの歌

  • 一寸法師を記述する試み

  • 二頭女―影の映画

  • 書見機



    作詞


  • 戦争は知らない(1967年、ザ・フォーク・クルセダーズ)

  • 涙のオルフェ(1968年、フォーリーブス)

  • 新 初恋(1968年、江夏圭介)

  • かもめ(1968年、浅川マキ)

  • 時には母のない子のように(1969年、カルメン・マキ)

  • 涙のびんづめ(1969年、伊東きよ子)

  • さよならだけが人生ならば(1969年、六文銭 (音楽ユニット)|六文銭)

  • 首つりの木(1970年、J.A.シーザー)

  • 酔いどれ船(1970年、緑魔子)

  • あしたのジョー(1970年、尾藤イサオ)

  • 孤独よ おまえは(1971年、ザ・シャデラックス)

  • 勇士のふるさと(1972年、ヤング101)

  • 人の一生かくれんぼ(1972年、日吉ミミ)

  • 君にお月さまをあげたい(1973年、郷ひろみ)

  • 海猫(1973年、北原ミレイ)

  • 新宿港(1974年、桜井京)

  • 浜昼顔(1974年、五木ひろし)

  • 元気ですか(1976年、ジャニーズJr.スペシャル|JOHNNYS'ジュニア・スペシャル)

  • ぼくの消息(1976年、豊川誕)

  • 与謝野晶子(1978年、朝丘雪路)

  • もう頬づえはつかない(1979年、荒井沙知)



    外部リンク


  • 三沢市 寺山修司記念館

  • TERAYAMA WORLD


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    2007年09月12日

    映画監督[篠原哲雄]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    篠原哲雄



    篠原 哲雄(しのはら てつお、1962年2月9日 - )東京出身の映画監督。明治大学法学部卒。専攻は法社会学、法文化論。「月とキャベツ」が初の劇場用長編作品となる。以降、「洗濯機は俺にまかせろ」(1999)、「はつ恋」(2000)、「命」(2002)等、現在日本を代表する映画監督の1人。




    監督作品


  • 亀顔少年(1984年)

  • RUNNING HIGH(1989年)

  • 草の上の仕事(1993年)

  • バカヤロー!V エッチで悪いか−天使たちのカタログ(1993年 カラー31分 ビデオ作品(オムニバスの1本))

  • YOUNG & FINE(1994年、ツインズ)

  • 歪んだ欲望−Emotional Blue(1995年、アルゴピクチャーズ)

  • 月とキャベツ(1996年、エースピクチャーズ、西友)- 出演、山崎まさよし、真田麻垂美

  • 悪の華(1996年、KISS)- 出演、大沢樹生、原久美子、大杉漣、浅沼順子、原サチコ、並木史郎、横山あきお

  • 恋、した。 オールドタウンで恋をして(1997年、テレビ東京、アミューズ)- 出演、小林麻子

  • ふたりのアリス(1997年 フジテレビジョン|フジテレビ、ROBOT)- 出演、浜丘麻矢、鶴見辰吾

  • なっちゃん家 なっちゃん家のお客さん(1998年、テレビ朝日、アミューズ)

  • 洗濯機は俺にまかせろ(1999年、ボノボ、スターボード)-出演、筒井道隆、富田靖子、小林薫

  • きみのためにできること(1999年、日活)- 出演、柏原崇、真田麻垂美、川井郁子、岩城滉一、大杉漣、田口浩正

  • はつ恋(2000年、東映)- 出演、田中麗奈、原田美枝子、平田満、真田広之

  • 死者の学園祭(2000年、東映)−原作、赤川次郎 −出演、深田恭子、加藤雅也、内田朝陽、根津甚八 (俳優)|根津甚八

  • 張り込み(2001年、JRSS)−出演、若林しほ、小市慢太郎、堺雅人、榊ゆりこ、木村つかさ、伊沢麿紀、伊藤洋三郎

  • 女学生の友(2001年7月BOXin東中野、BS-i、東宝)−原作、柳美里 −出演、山崎努、前田亜希、野村佑香、山崎一、毬谷友子、中村久美、山田辰夫

  • 命 (2002年、命製作委員会(東京放送|TBS、東映、小学館、TOKYO FM、朝日新聞))−原作、柳美里 −出演、江角マキコ、豊川悦司、筧利夫、寺脇康文、平田満、麻生久美子、樹木希林

  • 木曜組曲(2001年、和光インターナショナル)−出演、鈴木京香、原田美枝子、富田靖子、西田尚美、加藤登紀子、浅丘ルリ子

  • けん玉(2002年)−出演、山崎まさよし、篠原涼子、山田幸伸、氏家恵、あがた森魚

  • オー・ド・ヴィー(2002年、オー・ド・ヴィー製作委員会)−出演、岸谷五朗、小山田サユリ、鰐淵晴子、寺田農、松重豊、朝加真由美、根岸季衣



    外部リンク


  • 篠原哲雄オフィシャルホームページ

  • 「命」公式サイト

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    2007年09月11日

    映画監督[寺山修司]

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    映画ファン「映画監督・評論家編」
    寺山修司




    寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は、劇作家、歌人、詩人、小説家、映画監督、競馬評論家など幅広い分野で活躍した人物である。



    略歴


  • 1935年(昭和10年)12月10日生まれ。
    母ハツによれば、青森県弘前市紺屋町生まれ。
    寺山によれば、「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」など、出身地に関して異なった記述が見られる。寺山のこうした記述には多分に創作が混じっているといわれる。
    戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、母ハツは産後保養していたため」という。本籍地は青森県上北郡六戸村(現:三沢市)。
    父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。父・八郎は当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。

  • 1941年(昭和16年)八戸市へ転居。
    父八郎出征(その後戦死)のため、母と三沢市へ疎開。母はその後九州で働くために青森市の親類に預けられる。青森市マリア幼稚園入園。

  • 1942年(昭和17年)青森市立浦町尋常小学校(現:浦町小学校)入学。

  • 1945年(昭和20年)青森空襲。青森市街地をほぼ焼き尽くす米軍による集中攻撃だった。母ハツとともに逃げ惑い焼け出される。家も焼け一面焼け野原。
    終戦後はハツの兄を頼り六戸村古間木(現:三沢市)の古間木駅前(現:三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働く。
    米軍差し押さえの民家に移る。

  • 1948年(昭和23年)古間木中学校入学。
    秋、青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校。

  • 1951年(昭和26年)青森県立青森高等学校進学。文学部に所属。全国学生俳句会議結成。同期生に沢田教一。

  • 1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。山田太一とは同級。在学中から歌人として活動。18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。

  • 在学1年足らずで中途退学。

  • 1967年(昭和42年)演劇実験室・天井桟敷を結成。劇作家・詩人・歌人・演出家として活躍。

  • 1970年(昭和45年)3月24日、人気漫画?あしたのジョー?の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務める。

  • 1971年(昭和46年)『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出した。

  • 1983年(昭和58年)東京都杉並区永福在住中に、河北総合病院にて、敗血症で死去。。その後、天井桟敷の劇団員を中心に演劇実験室「万有引力」結成。現在に至る。青森県三沢市に寺山修司記念館あり。相当な人見知り癖があったと、美輪明宏は述懐している。



    歌集


  • 『空には本』(1958年)

  • 『血と麦』(1962年)

  • 『田園に死す』(1965年)

  • 『テーブルの上の荒野』(1971年 『寺山修司全歌集』収録)



    句集


  • 寺山修司青春歌集






  • 長編叙事詩・李庚順

  • 未刊詩集ロング・グッドバイ

  • 寺山修司少女詩集



    評論など

    幅広く評論をしており、ジャンルは漫画、歴史人物、小説、映画などジャンルは広い。
    竹宮恵子の「風と木の詩」1巻に寺山修司の解説有り、また「サザエさんの性生活」について書いた事がある。



    競馬

    寺山修司は競馬への造詣も深く、『ユリシーズ』という競走馬の馬主でもあった。またスポーツ報知|報知新聞競馬面に1970年10月から1983年4月まで『風の吹くまゝ』というタイトルで予想コラムを書いていたことでも知られる。騎手では吉永正人(故人)を贔屓にしていた。『馬敗れて草原あり』『競馬無宿』『競馬への望郷』など、競馬に関する著作も多い。またハイセイコーやテンポイントへ捧げる詩も作った。寺山修司は日本中央競馬会(JRA)のCMにも出演し、『カモメは飛びながら歌を覚える。人生は遊びながら年老いていく』と、本人自ら台詞を喋るシーンもあった。



    脚本




    [ ラジオ ]



    [ テレビ ]


  • 一匹

  • ミュージカル わが心のかもめ(1966年(昭和41年)3月22日放送/NHK)


    [ 映画 ]

    (監督作品を除く)

  • みな殺しの歌より 拳銃よさらば(1960年)

  • 乾いた湖(1960年)

  • わが恋の旅路(1961年)

  • 夕陽に赤い俺の顔(1961年)

  • 涙を、獅子のたて髪に(1962年)

  • 初恋・地獄篇(1968年)

  • 無頼漢(1970年)

  • サード(1978年)

  • 怪盗ジゴマ 音楽篇(1988年)


    [ 長編 ]




    演劇


  • 「演劇の文学ばなれ(戯曲ばなれ)」を主張し続けた。戯曲に書かれて完結した世界を、舞台でそのまま再現することが演劇なのか。「一度、『戯曲』として書き、きちんと幕を切ってしまったものを、どうしてもう一度、生身の人間を使って現場検証してみようとするのか」。演劇は、演劇という独自の表現なのであり、創造のきっかけとなるキーワードとしての「台本」(「戯曲」とは異なる)のみ許される、とした。

  • 演劇の重要な構成要素であるはずの観客に焦点を当てる作品も上演した(「観客席」)。「俳優座や文学座があって、どうして観客座という名の劇団がないのか」。

  • 彼の考え方は生前の演劇界においては異端視され、主に海外で評価されることになった。没後20年以上経った現在では、数多くの劇団が寺山作品を上演し、新たなる観客との出会いを試み続けている。

  • 当時の天井桟敷は、唐十郎の赤テント、佐藤信の黒テント、鈴木忠志の早稲田小劇場、と共に「アングラ四天王」と呼ばれ、大きな支持を受けた。


    [ 主な作品(一部共同台本、共同演出を含む) ]


  • 毛皮のマリー

  • 犬神

  • 邪宗門

  • 阿片戦争

  • 盲人書簡

  • ノック

  • 中国の不思議な役人

  • 青ひげ公の城

  • 身毒丸

  • 奴婢訓

  • レミング



    映画




    [ 長編 ]


  • 書を捨てよ町へ出よう(1971年)

  • 田園に死す(1974年)

  • ボクサー(1977年)

  • 草迷宮 (映画)|草迷宮(1979年、1983年)

  • さらば箱舟(1984年)


    [ 短編 ]


  • 猫学(キャットロジー)

  • 檻囚

  • トマトケチャップ皇帝

  • ジャンケン戦争

  • ローラ

  • 蝶服記

  • 青少年のための映画入門

  • 迷宮譚

  • 疱瘡譚

  • 審判



  • 消しゴム

  • マルドロールの歌

  • 一寸法師を記述する試み

  • 二頭女―影の映画

  • 書見機



    作詞


  • 戦争は知らない(1967年、ザ・フォーク・クルセダーズ)

  • 涙のオルフェ(1968年、フォーリーブス)

  • 新 初恋(1968年、江夏圭介)

  • かもめ(1968年、浅川マキ)

  • 時には母のない子のように(1969年、カルメン・マキ)

  • 涙のびんづめ(1969年、伊東きよ子)

  • さよならだけが人生ならば(1969年、六文銭 (音楽ユニット)|六文銭)

  • 首つりの木(1970年、J.A.シーザー)

  • 酔いどれ船(1970年、緑魔子)

  • あしたのジョー(1970年、尾藤イサオ)

  • 孤独よ おまえは(1971年、ザ・シャデラックス)

  • 勇士のふるさと(1972年、ヤング101)

  • 人の一生かくれんぼ(1972年、日吉ミミ)

  • 君にお月さまをあげたい(1973年、郷ひろみ)

  • 海猫(1973年、北原ミレイ)

  • 新宿港(1974年、桜井京)

  • 浜昼顔(1974年、五木ひろし)

  • 元気ですか(1976年、ジャニーズJr.スペシャル|JOHNNYS'ジュニア・スペシャル)

  • ぼくの消息(1976年、豊川誕)

  • 与謝野晶子(1978年、朝丘雪路)

  • もう頬づえはつかない(1979年、荒井沙知)



    外部リンク


  • 三沢市 寺山修司記念館

  • TERAYAMA WORLD


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    2007年09月10日

    映画監督[石井輝男]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    石井輝男



    石井 輝男(いしい てるお、1924年1月1日 - 2005年8月12日)は、日本の映画監督。70年代はエログロ作品とアクション作品を量産し、90年代はつげ義春、江戸川乱歩の世界へ傾倒した。東映プロデューサーの天尾完次は石井は同じ東宝出身の黒澤明と対極に位置すると評している。



    略歴


  • 1924(大正13)年1月1日、東京都中央区_(東京都)|中央区生まれ。生家は浅草の綿問屋。



    [東宝]


  • 1939(昭和14)年、早稲田実業学校|早稲田実業を中退。後に東宝へ撮影助手として入社。

  • 1945(昭和20)年、召集。復員後、東宝に戻る。



    [新東宝]


  • 1946(昭和21)年、新東宝に参加。撮影部より演出部に移る。

  • 1947(昭和22)年3月、渡辺邦男監督の助監督につき演出の仕事を始める。この後、清水宏 (映画監督)|清水宏、成瀬巳喜男の助監督にもつく。

  • 1957(昭和32)年、「栄光の世界」で監督デビュー。

  • 1960(昭和35)年、1月13日「黒線地帯」公開。


    [ 東映 ]


  • 1961(昭和36)年、東映と専属契約を結ぶ。6.23公開の「花と嵐とギャング」が東映(第二東映)の第1作。

  • 1965(昭和40)年、4月18日「網走番外地」(高倉健主演)公開。

  • 1968(昭和43)年、5月1日「徳川女系図」公開。9.28公開の「徳川女刑罰史」は低予算で同年邦画配収の9位。

  • 1969(昭和44)年、10月31日「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」公開。

  • 1974(昭和49)年、12月28日「直撃地獄拳 大逆転」(千葉真一主演)公開。

  • 1977(昭和52)年、7月17日「惑星ロボ ダンガードA|惑星ロボ ダンガードA対昆虫ロボット軍団」公開。

  • 1979(昭和54)年、10月6日「暴力戦士」公開。この後、劇映画は休養に入る。

  • 1991(平成3)年、6月14日「ザ・ヒットマン 血はバラの匂い」(東映Vシネマ)リリース。


    [復活]


  • 1993(平成5)年、7月24日「ゲンセンカン主人」公開。これ以降、「無頼平野」「ねじ式」「地獄 (1999年)|地獄」を撮る。

  • 2005(平成17)年、8月12日癌により没す。享年81。遺作は「盲獣VS一寸法師」(2001年)。



    備考

    成瀬巳喜男の助監督時代に、成瀬作品の産みの親である脚本家の水木洋子の作品を渇望していたが水木に嫌われていたとする説がある。



    参考図書

    石井輝男映画魂」石井輝男・福間健二、ワイズ出版  ; ISBN 4948735086



    外部リンク


  • 石井輝男監督公認ウェブサイト

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    2007年09月09日

    映画監督[溝口健二]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    溝口健二



    溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は東京都出身の映画監督。女性を主人公に据えた情緒的な作品が多い。




    来歴

    小学校卒業後、神戸又新日報社に図案係として勤務。1920年日活向島撮影所に入る。関東大震災後、京都撮影所に移る。1925年、恋人であり同棲中の雇女(別れた後?貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で斬られる事件以来、以後女性をテーマにした作品に独特の感覚を発揮するようになる。1932年?日活を辞め入江たか子の入江プロダクションで仕事をするようになり、『満蒙建国の黎明』、『瀧の白糸』が大ヒット。1934年永田雅一の第一映画に参加、のち松竹・大映と移る。戦中戦後はスランプとなりヒットがなく引退が時間の問題といわれた。客を呼べなくなった田中絹代を主役にするなと言う周りの声に耳を貸さず重用し続けた。1952年の『西鶴一代女』はヒットしなかったが、ベネチア国際映画祭|ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を得て流れが変わる。1953年『雨月物語』(銀獅子賞)、1954年『山椒大夫』(銀獅子賞)という3年連続のベネチア国際映画祭|ヴェネツィア国際映画祭入賞は日本国内では他に類を見ない功績である。その後まもなく体調を崩し1956年『赤線地帯』撮影後、白血鼻 B$N$?$a;`5n!#5}G/58。ジャン=リュック・ゴダールをはじめ、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ベルナルド・ベルトルッチ、ジャック・リヴェット、ピエル・パオロ・パゾリーニなどヌーベルヴァーグ世代のヨーロッパの映画作家に多大な影響を与えた。とりわけゴダールの溝口への傾倒ぶりは有名で、「好きな監督を3人挙げると?」との問いに「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えたほどである。またゴダールは1966年、溝口の墓に参っている。黒澤明、小津安二郎、木下恵介、成瀬巳喜男らと並び称される日本映画の巨匠であり、没後50年に当たる2006年には、2003年の小津生誕100周年、2005年の成瀬生誕100周年同様DVD BOXのリリースや名画座などでの回顧特集が組まれ、改めて注目を浴びた。



    主な監督作品


  • 1923年 愛に甦へる日

  • 1929年 東京行進曲(原作:菊池寛)

  • 1929年 朝日は輝く:伊奈精一と共同監督

  • 1933年 瀧の白糸(原作:泉鏡花)

  • 1935年 折鶴お千(原作:泉鏡花)

  • 1935年 虞美人草(原作:夏目漱石)

  • 1936年 浪華悲歌

  • 1936年 祇園の姉妹

  • 1938年 露營の歌

  • 1939年 残菊物語(原作:村松梢風)

  • 1941年 藝道一代男

  • 1941-42年 元禄忠臣蔵(前後篇)(原作:真山青果)

  • 1946年 女性の勝利

  • 1946年 歌麿をめぐる五人の女(原作:邦枝完二)

  • 1947年 女優須磨子の恋(原作:長坂秀雄)

  • 1948年 夜の女たち(原作:久板栄二郎)

  • 1950年 雪夫人絵図(原作:舟橋聖一)

  • 1951年 お遊さま(原作:谷崎潤一郎)

  • 1951年 武蔵野夫人(原作:大岡昇平)

  • 1952年 西鶴一代女(原作:井原西鶴):ベネチア国際映画祭|ヴェネツィア国際映画祭国際賞、BBC「21世紀に残したい映画100本」に選出

  • 1953年 雨月物語(原作:上田秋成):ベネチア国際映画祭|ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー経歴賞

  • 1953年 祇園囃子(原作:川口松太郎)

  • 1954年 噂の女

  • 1954年 近松物語(原作:近松門左衛門)カンヌ国際映画祭|カンヌ国際映画祭コンペティション

  • 1954年 山椒大夫(原作:森鴎外):ベネチア国際映画祭|ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞

  • 1955年 新・平家物語(原作:吉川英治)ベネチア国際映画祭|ヴェネツィア国際映画祭コンペティション

  • 1955年 楊貴妃 ベネチア国際映画祭|ヴェネツィア国際映画祭コンペティション

  • 1956年 赤線地帯 ベネチア国際映画祭|ヴェネツィア国際映画祭コンペティション



    作風


  • 演技の流れをカット割りによって断ち切ってしまうことを嫌い、(特に後年の作品において)1カット数分に及ぶような長回しを多用した。結果として流麗かつ緊張感にあふれた演出を編み出し、右腕であったカメラマン宮川一夫の撮影とあわせて高評価を得た。

  • 上述通り女性を中心に据えた濃密なドラマの演出に才を見せる一方、歴史劇製作に際しての綿密な考証によっても知られる。『元禄忠臣蔵』撮影の際は実物大の松の廊下のセットを製作(建築監督として新藤兼人が参加)したり、『楊貴妃』では当時の中国唐代研究の最高峰である京都大学人文科学研究所に協力を依頼したり、宮内省(現在の宮内庁)雅楽部の尽力により唐代の楽譜を音楽に活用するといった、妥協のない映画作りを展開している。また、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗考証担当に抜擢した事でも知られる。

  • 役者に演技をつけずやり直しを命じ、悩んだ役者がどうすればいいのか訊いても「演技するのが役者の領分でしょう」といっさい助言などをしなかった。出演者に強い付加と緊張を強いる演出法ながら、「ちゃんと考えて、セットに入るときにその役の気持ちになっていれば、自然に動けるはずだ、と監督さんはおっしゃるんです。それは当然ですよね」という香川京子のコメント没後五十年特別企画「溝口健二の映画」カタログ「はじめての溝口健二などの好意的な評価も見られる。

  • 演出の際、俳優たちに「反射していますか」と口癖のように言って回った。これは「相手役の演技を受けて、自分の演技を相手に“はね返す”」といったような意味合いであったといわれる。長回し主体の溝口演出においては重要な点であった。

  • こうした一切の妥協を見せず俳優やスタッフを厳しく叱咤する演出法から、「ゴテ健」(ゴテるとは、不平や不満を言うこと)とあだ名された。

  • 『西鶴一代女』で家並みのセットを作ったところ、溝口がやってきて「下手の家並みを1間前に出せ」といった。それはほんのワンシーンのためのセットで映画の中でさほど重要ではない。助監督はやむなく嫌がる大道具のスタッフに頭を下げて徹夜で作り直させた。翌日、セットを見て監督が言うには「上手の家並みを1間下げろ」。つまり結局は元に戻せということであり、助監督は激怒して帰宅したと伝えられる。この言いがかりとも考えられる指示は、演出に行き詰っていたための時間稼ぎだったと言われる。

  • 宮川一夫(カメラマン)、依田義賢(脚本)、水谷浩(美術)、早坂文雄(音楽)といった類まれな才能を持ったスタッフが溝口組に参加していた。中でも水谷は日本では他のスタッフより知名度が低いが、反対にフランスでは水谷が一番有名。彼の手による溝口のデスマスクが、現在でも保管されている。



    人物


  • 映画人との私的な交際はあまり見られなかったが、田中絹代とは公私にわたる親交を育んだ。田中との親交を物語るエピソードとして、幼時から「美人ではないが(演技力がある)」という冠詞をもって語られることの多い田中に、『お遊さま』撮影に際し「あなたを最も美しく撮ります」と語ったという話がある。

  • 田中とはその後、彼女が映画監督をやることになったことを記者から聞かされて「田中の頭では監督は出来ません」と答え、関係に距離が生じたとされている。ただしこのコメントには田中が自分の元から離れてしまうことへの嫉妬心があったともされる。

  • 女性に対する暴言も有名で、前述のように情婦を怒らせ斬られている。『祇園囃子』の際、若尾文子に対して決して名前を呼ばず「おい?子供」、『赤線地帯』の際には「顔の造作が悪い」と罵倒した。かつて入江プロに雇われ、名匠と呼ばれるきっかけを作った恩人でもあった入江たか子に対しては、『楊貴妃』の際「化け猫ばかりやってるからそんな芸格のない芝居しか出来ないのだ」と満座の中で罵倒している。また『雨月物語』の際、水戸光子に向かって、「あんたは輪姦された経験がないんですか!」 と言い放った。ただし田中には、上記のコメントを除いては常に紳士的な態度を崩さなかった。

  • 他に『わが恋は燃えぬ』の際、菅井一郎に向かって、「君は脳梅毒です!医者に診てもらいなさい!」と言い放ち、『山椒大夫』の際、子役に向かって「この子はどうしようもないバカだね!」と言い、すぐ近くにいた母親は真っ青になった。

  • 一方で『雨月物語』撮影中には、会心の演技を見せた森雅之が「誰かタバコをください」と言った時に、自ら率先してタバコを差し出し火を点けて労ったという話もある。これにはスタッフや森自身も大いに驚いたらしい。

  • 『西鶴一代女』をプロデュースした児井英生の著書「伝 日本映画の黄金時代」(文芸春秋)によると溝口監督はわがままで、権威のある人には弱く、目下のものには横暴というタイプであるため役者からもスタッフからも嫌われていた。さらに映画で使われた道具を内緒で自分のものにしてしまったり、自分の生活費の一部を映画の製作費から支払わせていたということもあった。

  • ただし、溝口に崇拝の念を抱いている新藤兼人などは人格面でも一定の評価を下している。

  • 友人は少なかったが、幼馴染の川口松太郎や花柳章太郎とは親交を長くもったという。

  • 成瀬巳喜男の『浮雲 (映画)|浮雲』が話題になっていたとき、当時の助監督の熱心な勧めによって鑑賞したが、その助監督に「成瀬には金玉が付いとるのですか」と感想を語ったことがある。両者の作風や人間性の違いを物語るエピソードである。

  • 日本映画史上初の女性監督は坂根田鶴子(さかねたづこ)で、彼女は戦前の溝口作品で助監督を務めていた。そして2人目は田中絹代であり、溝口は女性監督第1号と第2号に深く関わっていることになる。

  • 映画会社から新人だった宮川一夫を使うよう命令されて、溝口はひどく立腹するも、いざ仕事をするとその態度は豹変。他の監督の撮影が延期して宮川が溝口組に参加できなくなると、「僕たちの仲を裂くんですか!」と会社に抗議した。

  • 溝口は俳優の演技に興奮すると我を忘れて手をブルブル震わせる癖があり、その振動が横にあるカメラにまで伝わるほどだった。そこで高い場所など不安定な位置からの撮影時は、本番になると溝口と同じ体重分の鉄板をカメラの横に置いて、本人は別の場所に移動してもらっていた。本番もできるだけカメラと同じ位置で見ようと、梯子の上に座布団を乗せて馬乗り状態の溝口の写真が残っている。また溝口は最初、宮川一夫から手の震えを指摘されても全然本気にせず、ラッシュ(未編集の下見用フィルム)で目の当たりにして、「こんなに震えてるのかい?」と照れくさそうに笑って素直に認めたという。



    外部リンク


  • kadokawa

  • 溝口健二――人と作品 個人の研究サイト

  • 日本映画データベース:溝口健二 全作品フィルモグラフィー




    関連項目


  • 映画監督一覧-日本の映画監督一覧

  • 田中絹代

  • 三船敏郎



    参考作品


  • 関係者のインタビュー集『ある映画監督の生涯』監督:新藤兼人 1975 日本アート・シアター・ギルド|ATG

  • ドキュメンタリー『時代を越える溝口健二』監督:櫻田明広 2006 角川ヘラルド映画




    参考文献


  • 溝口健二というおのこ(津村節夫・著)

  • 溝口健二の人と芸術(依田義賢・著、1958年)

  • ある映画監督の生涯 ― 溝口健二の記録 ―(新藤兼人・著、1975年)

  • 映画監督 溝口健二(四方田犬彦・編、1999年)








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