2008年02月29日

映画監督[岩井俊二]

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映画ファン「映画監督・評論家編」
岩井俊二



岩井 俊二(いわい しゅんじ、1963年1月24日 - )は、宮城県仙台市出身の映画監督・映像作家・脚本家・音楽家。脚本家としては、網野 酸(あみの さん)というペンネームを用いることもある。血液型O型。



概要

仙台第一高等学校を経て、1987年、横浜国立大学教育学部美術学科卒。学生時代から小説家を目差し、美術の学科に入ったのもその道に影響すればいいと思ったため。絵はあくまでも趣味で描き、漫画の持込みなどもした。卒業後は就職活動をせず、とにかく映像関係の仕事に就きたいとアルバイトとして人脈を広げる。1988年、ビーイングなどのミュージック・ビデオの仕事を始める。1993年、テレビドラマ『If もしも|if もしも〜打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を演出し、日本映画監督協会新人賞を受賞。同作品は再編集され、1994年劇場公開される。1995年、初の長編映画『Love Letter』を監督。日本や中国でも好評だったが、韓国では特に爆発的な人気を呼んだ。これに続く『スワロウテイル』は賛否両論あったが、岩井の知名度を大きく上げた作品である。その後長編・短編作品を順調に公開し、独特な映像美から「岩井美学」などと呼ばれるようになる。初めてドキュメンタリーを発表した1999年頃から劇映画の監督業以外にもフィールドを広げ、2000年には庵野秀明監督『式日』に如 PM%$H$7$F=P1i!#?7$7$$5;=Q$K$bL4Cf$G!"F1G/%$%s%?!<%M%C%H>e$NEE;R7G<(HD|BBSを使った大衆参加による小説『リリイ・シュシュのすべて』を完成、映画化する。この映画もまたHD24Pという、フィルム表現に近いデジタル撮影による新しい方法で行われ、仮編集はアップルコンピュータ|ApplePowerBookが用いられた。この撮影法をいち早く取り入れた一人である。また、2003年にはWEB配信という新しい上映方法で『花とアリス(ショートフィルム)』を公開。2004年4月1日からオフィシャルのウェブページでシナリオ募集していた『しな丼』のコーナーを閉鎖し、「戯作通信」こと『playwoks(プレイワークス)』というウェブサイトを開設、また合わせてラジオ番組、『円都通信』がスタート。この『playwoks』(『しな丼』)で扱われたシナリオがラジオドラマとして毎週放送されている。映画監督の市川崑へのオマージュ|リスペクトを示している事でも知られる。



作品




[ 映像作品 ]




[ テレビドラマ ]


  • 見知らぬ我が子 (1991年、テレビドラマ|TVドラマ「DRAMADOS」、脚本・監督)

  • 殺しに来た男 (1991年、TVドラマ「DRAMADOS」、脚本・監督)

  • マリア (1992年、TVドラマ「DRAMADOS」、脚本・監督)

  • 世にも奇妙な物語 「蟹缶」(1992年、監督)

  • 夏至物語 (1992年、TVドラマ「薔薇DOS」、脚本・監督)

  • オムレツ (1992年、「La cuisine」、脚本・監督)

  • GHOST SOUP (1992年、「La cuisine」、脚本・監督)

  • 雪の王様 (1993年、「TV-DOS-T」、脚本・監督)

  • FRIED DRAGON FISH (1993年、「La cuisine」、脚本・監督)

  • 打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか? (1993年、「If もしも 」、脚本・監督)

  • 世にも奇妙な物語「ルナティック・ラヴ」 (1994年、脚本・監督)


    [ 映画 ]


  • 打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?(1994年、脚本・監督)

  • PiCNiC(1994年、脚本・監督)

  • Undo_(映画)|undo(1994年、脚本・監督)

  • Love Letter(1995年、脚本・監督)

  • スワロウテイル(1996年、脚本・監督)

  • ACRI(1996年、原作・脚本)

  • 四月物語(1998年、脚本・監督・音楽(CLASSIC名義))

  • リリイ・シュシュのすべて(2001年、脚本・監督)

  • Jam Films「ARITA」(2002年、脚本・監督・音楽)

  • 花とアリス|花とアリス(ショートフィルム)(2003年、脚本・監督・音楽)
    web配信とDVD-Video(キットカットと同梱。現在は配信・生産共に終了)

  • 花とアリス(2004年、脚本・監督・音楽)

  • 市川崑物語(2006年、脚本・監督・編集)


    [ ドキュメンタリー ]


  • 少年たちは花火を横から見たかった(1999年)

  • 六月の勝利の歌を忘れない(2002年)


    [ ミュージックビデオ ]


  • 東京少年
    Getting Home(1991年)
    陽のあたる坂道で(1991年)
    Love you,So long(1991年)

  • Lily Chou-Chou
    グライド(2000年)
    共鳴(空虚な石)(2000年)
    飛べない翼(2001年)

  • 「Good-bye My Loneliness」 (1991年、ZARD)

  • 「ブルーライト ヨコスカ」 (1991年、Mi-Ke)

  • 「不思議ね…」 (1991年、ZARD)

  • 「もう探さない (シングル)|もう探さない」 (1991年、ZARD)

  • 「Merry Christmas To You」 (1991年、前田亘輝)

  • 「白い2白いサンゴ礁」 (1991年、Mi-Ke)

  • 「悲しきテディ・ボーイ」 (1992年、Mi-Ke)

  • 「うたをうたおう」 (1992年、大事MANブラザーズバンド)

  • 「サーフィン・JAPAN」 (1992年、Mi-Ke)

  • 「朝まで踊ろう」 (1992年、Mi-Ke)

  • 「Pink Christmas|BLUE MOONのように」 (1992年、Mi-Ke)

  • 「見つめるだけで」 (1993年、陣内大蔵)

  • 「素敵なバーディー (NO NO BIRDY)」 (1993年、サザンオールスターズ)

  • 「Swallowtail Butterfly〜あいのうた〜」 (1996年、YEN TOWN BAND)

  • 「フィルム 空の鏡」(1997年、松たか子)

  • 「クムリウタ」(2007年、大塚愛)

  • 毛ぼうし(ニットキャップマン)/ムーンライダーズ(1996年、短編VC、脚本・監督)


    [ 網野酸名義での作品 ]


  • 虹の女神 (2006年10月28日公開、脚本)


    [ラジオドラマ]


  • カルシウム (2004年6月、脚本(共著))

  • Bandage (2005年2月、脚本(共著))

  • MY LITTLE HONDA (2005年9月、脚本(共著))


    [ 著作 ]


  • Love Letter (1995年、小説)

  • スワロウテイル (1996年、小説)

  • トラッシュバスケット・シアター (1997年、自伝的エッセイ)

  • ウォーレスの人魚 (1997年、小説)

  • マジック・ランチャー (1998年、庵野秀明との対談本)

  • リリイ・シュシュのすべて (2001年、小説)



    出演作品


  • 式日(カントク役、2000年)



    関連項目


  • TBS「いのちの響#平成13年(2001年)放送 269〜319回|いのちの響」

  • 市川崑



    外部リンク


  • 円都通信

  • 戯作通信

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    2008年02月28日

    映画監督[溝口健二]

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    映画ファン「映画監督・評論家編」
    溝口健二



    溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、東京都出身の映画監督。女性を主人公に据えた情緒的な作品が多い。



    来歴

    1898年5月16日、東京市浅草区に生まれる。小学校卒業後、神戸又新日報|神戸又新日報社に図案係として勤務。1920年(大正9年)日活撮影所|日活向島撮影所に入る。関東大震災後、同京都撮影所に移る。1925年(大正14年)、恋人であり同棲中の雇女(別れた後?貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で斬られる事件以来、以後女性をテーマにした作品に独特の感覚を発揮するようになる。1932年(昭和7年)?日活を辞め入江たか子の入江プロダクションで仕事をするようになり、『満蒙建国の黎明』、『瀧の白糸』が大ヒット。1934年(昭和9年)、永田雅一の第一映画に参加、のち松竹・大映と移る。戦中戦後はスランプとなりヒットがなく引退が時間の問題といわれた。客を呼べなくなった田中絹代を主役にするなと言う周りの声に耳を貸さず重用し続けた。1952年の『西鶴一代女』はヒットしなかったが、ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を得て流れが変わる。1953年『雨月物語』(銀獅子賞)、1954年『山椒大夫』(銀獅子賞)という3年連続の同映画祭での入賞ぁ O!"F|K\9qFb$G$OB>$KN`$r8+$J$$8y@S$G$"$k!#$=$N8e$^$b$J$/BND4$rJx$7!"1956年(昭和31年)、『赤線地帯』撮影後の8月24日、白血病のため京都で死去。58歳没。同作が遺作となった。ジャン=リュック・ゴダールをはじめ、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ベルナルド・ベルトルッチ、ジャック・リヴェット、ピエル・パオロ・パゾリーニなどヌーベルヴァーグ世代のヨーロッパの映画作家に多大な影響を与えた。とりわけゴダールの溝口への傾倒ぶりは有名で、「好きな監督を3人挙げると?」との問いに「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えたほどである。またゴダールは1966年、溝口の墓に参っている。黒澤明、小津安二郎、木下恵介、成瀬巳喜男らと並び称される日本映画の巨匠であり、没後50年に当たる2006年には、2003年の小津生誕100周年、2005年の成瀬生誕100周年同様DVD BOXのリリースや名画座などでの回顧特集が組まれ、改めて注目を浴びた。



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    ※1953年までの作品は著作権の保護期間が完全に終了(公開後50年と監督没後38年の両方を満たす)したことから幾つかの作品が現在パブリックドメインDVD|激安DVDで発売中。

  • 1923年 愛に甦へる日

  • 1929年 東京行進曲 原作菊池寛

  • 1929年 朝日は輝く 共同監督伊奈精一

  • 1933年 瀧の白糸 原作泉鏡花

  • 1935年 折鶴お千 原作泉鏡花

  • 1935年 虞美人草 原作夏目漱石

  • 1936年 浪華悲歌

  • 1936年 祇園の姉妹

  • 1937年 愛怨峡

  • 1938年 露營の歌

  • 1939年 残菊物語 原作村松梢風

  • 1941年 藝道一代男

  • 1941年 - 1942年 元禄忠臣蔵 前篇・後篇 原作真山青果

  • 1946年 女性の勝利

  • 1946年 歌麿をめぐる五人の女 原作邦枝完二

  • 1947年 女優須磨子の恋 原作長坂秀雄

  • 1948年 夜の女たち 原作久板栄二郎

  • 1950年 雪夫人絵図 原作舟橋聖一

  • 1951年 お遊さま 原作谷崎潤一郎

  • 1951年 武蔵野夫人 原作大岡昇平

  • 1952年 西鶴一代女 原作井原西鶴 ※ヴェネツィア国際映画祭国際賞、BBC「21世紀に残したい映画100本」に選出

  • 1953年 雨月物語#派生作品|雨月物語 原作上田秋成 ※ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー経歴賞

  • 1953年 祇園囃子 原作川口松太郎

  • 1954年 噂の女

  • 1954年 近松物語 原作近松門左衛門 ※第8回カンヌ国際映画祭コンペティション

  • 1954年 山椒大夫#映画版|山椒大夫 原作森鴎外 ※ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞

  • 1955年 新・平家物語 (映画)|新・平家物語 原作吉川英治 ※ヴェネツィア国際映画祭コンペティション

  • 1955年 楊貴妃 (映画)|楊貴妃 ※ヴェネツィア国際映画祭コンペティション

  • 1956年 赤線地帯 ※ヴェネツィア国際映画祭コンペティション



    作風


  • 演技の流れをカット割りによって断ち切ってしまうことを嫌い、(特に後年の作品において)1カット数分に及ぶような長回しを多用した。結果として流麗かつ緊張感にあふれた演出を編み出し、右腕であったカメラマン宮川一夫の撮影とあわせて高評価を得た。

  • 上述通り女性を中心に据えた濃密なドラマの演出に才を見せる一方、歴史劇製作に際しての綿密な考証によっても知られる。『元禄忠臣蔵』撮影の際は実物大の松の廊下のセットを製作(建築監督として新藤兼人が参加)したり、『楊貴妃』では当時の中国唐代研究の最高峰である京都大学人文科学研究所に協力を依頼したり、宮内庁雅楽部の尽力により唐代の楽譜を音楽に活用するといった、妥協のない映画作りを展開している。また、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗考証担当に抜擢した事でも知られる。

  • 役者に演技をつけずやり直しを命じ、悩んだ役者がどうすればいいのか訊いても「演技するのが役者の領分でしょう」といっさい助言などをしなかった。出演者に強い付加と緊張を強いる演出法ながら、「ちゃんと考えて、セットに入るときにその役の気持ちになっていれば、自然に動けるはずだ、と監督さんはおっしゃるんです。それは当然ですよね」という香川京子のコメント没後五十年特別企画「溝口健二の映画」カタログ「はじめての溝口健二などの好意的な評価も見られる。

  • 演出の際、俳優たちに「反射していますか」と口癖のように言って回った。これは「相手役の演技を受けて、自分の演技を相手に“はね返す”」といったような意味合いであったといわれる。長回し主体の溝口演出においては重要な点であった。

  • こうした一切の妥協を見せず俳優やスタッフを厳しく叱咤する演出法から、「ゴテ健」(ゴテるとは、不平や不満を言うこと)とあだ名された。

  • 『西鶴一代女』で家並みのセットを作ったところ、溝口がやってきて「下手の家並みを1間前に出せ」といった。それはほんのワンシーンのためのセットで映画の中でさほど重要ではない。助監督はやむなく嫌がる大道具のスタッフに頭を下げて徹夜で作り直させた。翌日、セットを見て監督が言うには「上手の家並みを1間下げろ」。つまり結局は元に戻せということであり、助監督は激怒して帰宅したと伝えられる。この言いがかりとも考えられる指示は、演出に行き詰っていたための時間稼ぎだったと言われる。

  • 宮川一夫(カメラマン)、依田義賢(脚本)、水谷浩(美術)、早坂文雄(音楽)といった類まれな才能を持ったスタッフが溝口組に参加していた。中でも水谷は日本では他のスタッフより知名度が低いが、反対にフランスでは水谷が一番有名。彼の手による溝口のデスマスクが、現在でも保管されている。



    人物


  • 映画人との私的な交際はあまり見られなかったが、田中絹代とは公私にわたる親交を育んだ。田中との親交を物語るエピソードとして、幼時から「美人ではないが(演技力がある)」という冠詞をもって語られることの多い田中に、『お遊さま』撮影に際し「あなたを最も美しく撮ります」と語ったという話がある。

  • 田中とはその後、彼女が映画監督をやることになったことを記者から聞かされて「田中の頭では監督は出来ません」と答え、関係に距離が生じたとされている。ただしこのコメントには田中が自分の元から離れてしまうことへの嫉妬心があったともされる。

  • 女性に対する暴言も有名で、前述のように情婦を怒らせ斬られている。『祇園囃子』の際、若尾文子に対して決して名前を呼ばず「おい?子供」、『赤線地帯』の際には「顔の造作が悪い」と罵倒した。かつて入江ぷろだくしょんに雇われ、名匠と呼ばれるきっかけを作った恩人でもあった入江たか子に対してすら、『楊貴妃』の際「化け猫ばかりやってるからそんな芸格のない芝居しか出来ないのだ」と満座の中で罵倒している。また『雨月物語』の際、水戸光子に向かって、「あんたは輪姦された経験がないんですか!」 と言い放った。ただし田中には、上記のコメントを除いては常に紳士的な態度を崩さなかった。

  • 他に『わが恋は燃えぬ』の際、菅井一郎に向かって、「君は脳梅毒です!医者に診てもらいなさい!」と言い放ち、『山椒大夫』の際、子役に向かって「この子はどうしようもないバカだね!」と言い、すぐ近くにいた母親は真っ青になった。

  • 一方で『雨月物語』撮影中には、会心の演技を見せた森雅之が「誰かタバコをください」と言った時に、自ら率先してタバコを差し出し火を点けて労ったという話もある。これにはスタッフや森自身も大いに驚いたらしい。

  • 『西鶴一代女』をプロデュースした児井英生児井英生『伝 日本映画の黄金時代』(文藝春秋、1989年 ISBN 4163430105)の記述を参照。によると溝口監督はわがままで、権威のある人には弱く、目下のものには横暴というタイプであるため役者からもスタッフからも嫌われていた。さらに映画で使われた道具を内緒で自分のものにしてしまったり、自分の生活費の一部を映画の製作費から支払わせていたということもあった。

  • ただし、溝口に崇拝の念を抱いている新藤兼人などは人格面でも一定の評価を下している。

  • 友人は少なかったが、幼馴染の川口松太郎や花柳章太郎とは親交を長くもったという。

  • 成瀬巳喜男の『浮雲 (映画)|浮雲』が話題になっていたとき、当時の助監督の熱心な勧めによって鑑賞したが、その助監督に「成瀬には金玉が付いとるのですか」と感想を語ったことがある。両者の作風や人間性の違いを物語るエピソードである。

  • 日本映画史上初の女性監督は坂根田鶴子(さかねたづこ)で、彼女は戦前の溝口作品で助監督を務めていた。そして2人目は田中絹代であり、溝口は女性監督第1号と第2号に深く関わっていることになる。

  • 映画会社から新人だった宮川一夫を使うよう命令されて、溝口はひどく立腹するも、いざ仕事をするとその態度は豹変。他の監督の撮影が延期して宮川が溝口組に参加できなくなると、「僕たちの仲を裂くんですか!」と会社に抗議した。

  • 溝口は俳優の演技に興奮すると我を忘れて手をブルブル震わせる癖があり、その振動が横にあるカメラにまで伝わるほどだった。そこで高い場所など不安定な位置からの撮影時は、本番になると溝口と同じ体重分の鉄板をカメラの横に置いて、本人は別の場所に移動してもらっていた。本番もできるだけカメラと同じ位置で見ようと、梯子の上に座布団を乗せて馬乗り状態の溝口の写真が残っている。また溝口は最初、宮川一夫から手の震えを指摘されても全然本気にせず、ラッシュ(未編集の下見用フィルム)で目の当たりにして、「こんなに震えてるのかい?」と照れくさそうに笑って素直に認めたという。



    関連項目


  • 映画監督一覧 - 日本の映画監督一覧

  • 田中絹代

  • 三船敏郎



    参考文献


  • 溝口健二というおのこ』、津村節夫、実業之日本社、1958年 (芳賀書店、1977年)

  • 溝口健二の人と芸術』、依田義賢、映画芸術社、1964年
    :社会思想社、1996年 ISBN 439011588X
    :田畑書店、2003年 ISBN 4803800294

  • 『ある映画監督の生涯 - 溝口健二の記録 -』、新藤兼人、映人社、1975年

  • 溝口健二の世界』佐藤忠男、平凡社ライブラリー、2006年 ISBN 4582765939

  • 『映画監督 溝口健二』、四方田犬彦編、新曜社、1999年 ISBN 4788506920

  • 映画『ある映画監督の生涯』、監督新藤兼人、1975年、日本アート・シアター・ギルド|ATG ※ドキュメンタリー、関係者のインタビュー集

  • 映画『時代を越える溝口健二』、監督櫻田明広、2006年、角川ヘラルド映画 ※ドキュメンタリー









    外部リンク


  • kadokawa

  • 溝口健二 - 人と作品 個人の研究サイト

  • 日本映画データベース:溝口健二 - 全フィルモグラフィー



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    2008年02月24日

    映画監督[辻仁成]

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    映画ファン「映画監督・評論家編」
    辻仁成



    辻 仁成(歌手・映画監督の場合つじ じんせい、作家の場合及び本名つじ ひとなり、1959年10月4日- )は日本のミュージシャン、映画監督、小説家。血液型はO型。



    略歴

    1959年10月4日 東京都南多摩郡日野町(現日野市)に生まれ、その後父親の仕事の都合で福岡市、帯広市、函館市と各地を転々とする。北海道函館西高等学校卒業。成城大学経済学部中退(著書「そこに僕はいた」参照)。1985年、ロックバンドのECHOES(エコーズ)のヴォーカリストとしてデビュー。1989年、「ピアニシモ」で第13回すばる文学賞を受賞し作家デビュー。1991年、 ECHOES解散。本格的に作家としての活動を始める。1997年、「海峡の光」で第116回芥川龍之介賞|芥川賞を受賞。函館市栄誉賞受賞。1999年、「白仏」の仏翻訳語版でフランスの五大文学賞の一つである「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として初めて受賞。プライベートでは、1995年に女優の南果歩と結婚し、1男をもうけたが、2000年3月に離婚。
    2002年6月に、女優で歌手の中山美穂と再婚。間に子供が一人。現在はパリを拠点に創作活動を続けている。母は、童話作家の東君平夫人と従姉妹にあたる。弟は福岡市で陶芸教室を開いている。



    作家




    [著作本]


  • 『ピアニシモ』(1990年/集英社)(第13回[すばる文学賞]受賞)

  • 『クラウディ』(1990年/集英社)

  • 『カイのおもちゃ箱』(1991年/集英社)

  • 『ガラスの天井』(1992年・エッセイ集/集英社)

  • 『旅人の木』(1992年/集英社)

  • 『そこに僕はいた』(1992年・エッセイ集/集英社)(ここに収録されている「新聞少年の歌」は教育出版の中学1年国語の教科書に、「そこに僕はいた」は東京書籍の中学1年国語の教科書に収録されている)

  • 『フラジャイル』(1992年・戯曲/徳間書店)(舞台「フラジャイル」原作)

  • 『屋上で遊ぶ子供たち』(1992年・詩集/集英社)

  • 『ミラクル』(1993年/講談社)(ミュージカル「ミラクル」原作)

  • 『希望回復作戦』(1993年・詩集/集英社)

  • 『グラスウールの城』(1993年/福武書店)

  • 『母なる凪と父なる時化』(1994年/新潮社)(第110回芥川賞候補作)

  • 『オープンハウス』(1994年・短編集/集英社)(映画「オープンハウス」原作)

  • 『愛はプライドより強く』(1995年/幻冬舎)

  • 『ここにいないあなたへ』(1995年・写真詩集/集英社)

  • 『パッサジオ』(1995年/文藝春秋)

  • 『錆びた世界のガイドブック』(1995年・写真+短編集/角川書店)

  • 『ぼく、いたくない』(1995年・絵本/新書館)

  • 『応答願イマス』(1995年・詩集/集英社)

  • 『ニュートンの林檎(上・下巻)』(1996年/集英社)

  • 『アンチノイズ』(1996年/新潮社)

  • 『きょうのきもち』(1996年・ポストカードブック/フレーベル館)

  • オリジナル文庫『函館物語』(1996年・写真エッセイ集/集英社文庫)

  • 『音楽が終わった夜に』(1996年・エッセイ集/マガジンハウス)

  • 『海峡の光』(1997年/新潮社)(第116回芥川賞受賞)

  • 『僕のヒコーキ雲』(1997年・日記/集英社)

  • 辻仁成詩集 現代詩文庫149』(1997年・詩集/思潮社)

  • 『白仏』(1997年/文藝春秋)(仏語翻訳版でフランスの文学賞「フェミナ賞・1999年外国小説賞」を日本人として初めて受賞)

  • 『世界は幻なんかじゃない』(1998年・写真+エッセイ集/幻冬舎)

  • ミニ文庫『ガンバルモンカ』(1998年・短編集/角川ミニ文庫)

  • 『ワイルドフラワー』(1998年/集英社)

  • 『五女夏音』(1998年/中央公論新社)

  • 『千年旅人』(1999年/集英社)(映画「千年旅人」原作)

  • 『冷静と情熱のあいだ Blu』(1999年/角川書店)(『冷静と情熱のあいだ Rosso』は江國香織著)(映画「冷静と情熱のあいだ」原作)

  • 『嫉妬の香り』(2000年/小学館)(TVドラマ「嫉妬の香り」原作)

  • 『ニューヨークポエトリーキット』(2000年・詩集/思潮社)

  • 『愛をください』(2000年/マガジンハウス)(TVドラマ「愛をください」原作)

  • 辻仁成 青春の譜』(2000年・歌詩集/幻冬舎)

  • 『サヨナライツカ』(2001年/世界文化社)

  • 『恋するために生まれた』(2001年・江國香織氏との対話集/幻冬舎)

  • 『太陽待ち』(2001年/文藝春秋)

  • 『目下の恋人』(2002年・短編集/光文社)(映画「目下の恋人」原作)

  • 辻仁成+種田陽平式映画づくりの旅』(2002年/世界文化社)(種田陽平と共著)

  • 『愛と永遠の青い空』(2002年/幻冬舎)

  • 文庫『彼女は宇宙服を着て眠る』(2002年・短編集/集英社文庫)

  • 『ZOO 〜愛をください〜』(2002年・写真詩集/河出書房新社)

  • 『オキーフの恋人 オズワルドの追憶(上・下巻)』(2003年/小学館)

  • 『99才まで生きたあかんぼう』(2003年・イラスト辻仁成/集英社+ホーム社)

  • 『いまこの瞬間 愛しているということ』(2003年/集英社)

  • 『刀』(2004年/新潮社)

  • 『代筆屋』(2004年/海竜社)

  • 『いつか、一緒にパリに行こう』(2005年・パリガイドブック・写真エッセイ集/光文社)

  • 『幸福な結末』(2005年/角川書店)

  • 『アカシア』(2005年・短編集/文藝春秋)

  • 絵本『ヤダとイイヨ』(2005年/リーガル出版)

  • 文庫『二十八光年の希望』(2006年・「いまこの瞬間 愛しているということ」より改題/集英社文庫)

  • 文庫『青空の休暇』(2006年・「愛と永遠の青い空」より改題/集英社文庫)

  • 『愛のあとにくるもの』(2006年/幻冬舎)(対応する韓国側作品は孔枝泳著)

  • 『ピアニシモ・ピアニシモ』(2007年/文藝春秋)

  • 『人は思い出にのみ嫉妬する』(2007年/光文社)

  • 『孤独にさようなら』(2007年/マガジンハウス)


    [ビデオ]


  • 『生まれ変わるとしたら』(1996年)(ポエトリー・リーディング)



    音楽




    [作品]


  • 『WELCOM TO THE LOST CHILD CLUB』(ECHOES)

  • 『HEART EDGE』(ECHOES)

  • 『No Kidding』(ECHOES)

  • 『Goodbye gentle land』(ECHOES)

  • 『HURTS』(ECHOES)

  • 『Dear Fridnd』(ECHOES)

  • 『EGGS』(ECHOES)

  • 『遠くの空は晴れている』(辻仁成

  • 『君から遠く離れて』(辻仁成

  • 『言葉はキュークツ』(辻仁成

  • 『第三反抗期』(辻仁成

  • 『Sq.-スクエア-』(辻仁成

  • 『抜本的政治改革』(BEAT MUSIK)

  • 『NEW WALL』(TSUJI JINSEI×BEAT MUSIK)


    [楽曲を提供したアーティスト]


  • 浅香唯 … 『孤独(ひとり)〜この声が聞こえても〜』(作曲)

  • 甲斐バンド … 『O'l Night Long Cruising』(作詞)

  • カルメン・マキ … 『ワイルドフラワー』(作詞?作曲)

  • 川村かおり … 『ZOO』・『Sweet Little Boy』・『真っ白な月-Moon On The Destiny-』(作詞・作曲)

  • 小森まなみ … 『ハートのKey Station』(作曲)

  • 中村あゆみ … 『つなぎとめてほしい』(作詞)・『Star Lights』(作曲)

  • 野本直美 … 『Crossroad Again』(作詞?作曲)

  • 高橋研 … 『St.Jone's crusedes』(共作)

  • 蓮井朱夏(菅野美穂) … 『ZOO 〜愛をください〜』(作詞・作曲)

  • 早見優 … 『風になれ』(作詞・作曲)

  • BEGIN … 『愛が走る』(作詞)

  • Yuma …『光の子供』・『見つけてね』・『Aria』(作詞・作曲)



    映画監督


  • 『天使のわけまえ』(1994年)(自主制作)

  • 『千年旅人』(1999年)

  • 『ほとけ』(2001年)(ドーヴィル・アジア映画祭にて最優秀イマージュ賞受賞)

  • 『フィラメント』(2002年)

  • 『目下の恋人』(2002年)



    テレビドラマ脚本


  • 『愛をください』(フジテレビジョン|フジテレビ系)



    出演番組




    [ラジオ]


  • Radio Freedom・金曜日(1985年12月 - ? 横浜エフエム放送|FM横浜)

  • 辻仁成のオールナイトニッポン・月曜日・2部(1987年10月 - 1989年10月 ニッポン放送)

  • FMロックサーキット・水曜日(1987年10月 - ? FM福岡)

  • パックインミュージック21・水曜日・1部(1993年1月 - 4月 TBSラジオ)



    エピソード


  • やしきたかじん司会の「ハローナショナルショールーム」(MBSラジオ)にゲストとしてECHOESがプロモーションで出演した際、ボーカルである辻の横柄な態度(番組に出演しておきながら質問されても無視するなど、全くやる気のない態度)に、やしきと出演者であった泰葉が激怒。泰葉がやしきに「(倒して)やっちゃいな」と言い放ち、やしきが譜面台を投げつけ暴れたり、辻を殴ったりして騒然とさせた。以来、辻仁成とやしきたかじんは犬猿の仲である。



    関連項目


  • 日本の映画監督一覧

  • 江國香織

  • 孔枝泳

  • 鈴木慶一

  • 松武秀樹

  • 尾崎豊

  • ポエムリーディング

  • TBS「いのちの響」



    外部リンク


  • 辻仁成 オフィシャルウェブサイト

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    2008年02月23日

    映画監督[中島哲也]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    中島哲也



    中島 哲也(なかしま てつや、1959年9月2日 - )は、日本の映画監督、CMディレクター。



    人物

    福岡県生まれ。福岡県立筑紫高等学校 明治大学卒業。CM制作会社・日本天然色映画を経て、1987年よりフリー。CMデビュー作のフジッコ漬物百選では、山口美江の「しばづけ食べたい」のセリフが話題に。以後、サッポロ黒ラベル「温泉卓球」篇など多数のヒットコマーシャルメッセージ|CMを世に送り出しCM界の巨匠として知られるようになる。大学在学中に制作した『はの字忘れて』が、82年ぴあフィルムフェスティバルで入選し、『バカヤロー!私怒ってます/第二話 遠くてフラれるなんて』(1988年)で劇場映画監督デビュー。以後、『下妻物語』(2004)を監督。独特のユーモアとポップで色鮮やかな映像世界でCM、映画等幅広く活躍している。また、「プロの女優さんをほめるのは逆に失礼」という信念を持っており、出演者を罵倒し続ける監督として有名。このことは、『嫌われ松子の一生 (映画)|嫌われ松子の一生』に主演した中谷美紀が著書の中で書いている。2006年度文化庁芸術選奨文部科学大臣賞受賞。



    作品




    [ CM ]


  • フジッコ「漬物百選」(出演:山口美江)

  • クノール カップスープ(出演:小泉今日子)

  • サントリー 冷撰洋酒(出演:三浦友和 加藤茶)

  • サントリー モルツ「モルツ球団」(出演:原田芳雄)

  • 富士フイルム フジカラー写ルンです

  • ソフトバンクテレコム|J-PHONE(出演:永瀬正敏)

  • 日本中央競馬会|JRA'99年間キャンペーン(出演:木村拓哉)

  • 東日本電信電話|NTT東日本 フレッツ「ガッチャマン」篇(出演:SMAP)

  • サッポロビール サッポロ生 黒ラベル 「温泉卓球」篇(出演:豊川悦司 山崎努)

  • プロバイダーZERO


    [ 映画 ]


  • はの字忘れて

  • バカヤロー! 私、怒ってます 第二話 遠くてフラれるなんて

  • 夏時間の大人たち

  • Beautiful Sunday(出演:永瀬正敏 尾藤桃子)

  • 下妻物語(出演:深田恭子 土屋アンナ)

  • 嫌われ松子の一生 (映画)|嫌われ松子の一生(出演:中谷美紀 瑛太 伊勢谷友介 劇団ひとり)

  • パコと魔法の絵本 (映画)|パコと魔法の絵本(出演:役所広司 妻夫木聡 土屋アンナ 阿部サダヲ)


    [ テレビドラマ ]


  • 私立探偵 濱マイク 9話 ミスター・ニッポン〜21世紀の男〜(出演:永瀬正敏)

  • 世にも奇妙な物語 「ママ新発売!」(出演:ともさかりえ)

  • X'smap〜虎とライオンと五人の男〜(出演:SMAP)


    [ ビデオ ]


  • Smap Short Films ROLLING BOMBER SPECIAL

  • The Works of Tetsuya Nakashima


    [ PV ]


  • 松たか子『みんなひとり』

  • ぼくのなつやすみ3 -北国編- 小さなボクの大草原「2007年夏限定 特別映像企画 - あの夏にー



    主な受賞


  • ぴあフィルムフェスティバル入選(『はの字忘れて』)

  • 全日本シーエム放送連盟|ACC 金賞(JRA)

  • 全日本シーエム放送連盟|ACC グランプリ/特別賞(演出)(サッポロ黒ラベル)

  • ADC グランプリ(サッポロ黒ラベル)

  • ギャラクシー奨励賞(サッポロ黒ラベル)

  • 第26回ヨコハマ映画祭 作品賞 監督賞(『下妻物語』)

  • 第30回日本アカデミー賞 優秀監督賞 優秀脚本賞(『嫌われ松子の一生』)


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    2008年02月22日

    映画監督[柳下毅一郎]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    柳下毅一郎



    柳下 毅一郎(やなした きいちろう、1963年 - )は翻訳家、映画評論家、殺人研究家。自称「特殊翻訳家」(後述)。多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科非常勤講師(映像芸術論)。大阪府生まれ。甲陽学院中学校・高等学校から東京大学理科一類を経て東京大学工学部建築学科卒業。「ガース柳下」や「曲守彦」のペンネーム|筆名を使うこともある。
    町山智浩と共に仕事をするときは「ガース柳下」「ウェイン町山」の「ファビュラス・バーカー・ボーイズ」を名乗ることも多い。「特殊翻訳家」の謂いは、普通の翻訳家が手を出さない特殊な文献・文学作品を好んで翻訳することから。連続殺人、猟奇殺人、映画、等に造詣が深く、各分野で評論・エッセイを書いている。映画評論家としての仕事は、「映画秘宝」を中心に活動している。



    著書


  • 『世界殺人鬼百選/Ultimate Murder File』(ぶんか社、1996.9)(ガース柳下名義)

  • 『世界殺人ツアー 殺人現場の誘惑』(原書房、1998.2)→文庫化にあたって改題『殺人マニア宣言』(ちくま文庫、2003.9)

  • 『愛は死より冷たい 映画嫌いのための映画の本』(洋泉社、1998.9)

  • 『コンプリート・チャールズ・マンソン チャールズ・マンソンとシャロン・テート殺人事件』 (コアマガジン、1999.10)(共著)

  • 『ファビュラス・バーカー・ボーイズの地獄のアメリカ観光』(洋泉社、1999.1)(町山智浩と共著)

  • 『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』(洋泉社、2002.5)(町山智浩と共著)

  • 『シー・ユー・ネクスト・サタデイ 完全収録『激殺!映画ザンマイ』』(ぴあ、2003.10)

  • 『興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史』(青土社、2003.12)

  • 『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判 2』(洋泉社、2004.9)(町山智浩と共著)



    編書


  • 『ティム・バートン 期待の映像作家シリーズ』(キネマ旬報社、2000.3)

  • 『実録殺人映画ロードマップ』(洋泉社、2004.4)



    監書


  • 『実録!マーダー・ウォッチャー 2005summer issue』(洋泉社、2005.7)

  • 『女優・林由美香』(洋泉社、2006.10)(編集は、直井卓俊、林田義行)



    訳書


  • ウィリアム・S・バロウズ『おかま』(ペヨトル工房、1988)(山形浩生と共訳)

  • J・G・バラード『クラッシュ』(ペヨトル工房、1992)

  • フランク・リシャンドロ『ジム・モリスン/幻の世界』(JICC出版局、1992.4)

  • モリッシー/ジョン・ロバートスン『クイーン・イズ・デッド モリッシー発言集』(JICC出版局、1992.9)

  • ジョン・スラデック『遊星よりの昆虫軍X』(ハヤカワ文庫、1992.12)

  • ウィリアム・S・バロウズ『おぼえていないときもある』(ペヨトル工房、1993)(浅倉久志ほかと共訳)

  • ジョン・レチー『ラッシュ』(白夜書房、1993.5)

  • ジェームス・ヤング『ニコ ラスト・ボヘミアン』(宝島社、1993.5)

  • ギデオン・サムズ『ザ・パンク』(PSC、1994.12)

  • デヴィッド・ブレスキン『インナーヴューズ 映画作家は語る』(大栄出版、1994.12)

  • ハロルド・シェクター『オリジナル・サイコ 異常殺人者エド・ゲインの素顔』(ハヤカワ文庫、1995.2)

  • ブルース・ワグナー『バド・ウィギンズ氏のおかしな人生(上・下)』(扶桑社文庫、1995.9)

  • ルベン・マルティネス『すべてのリズムで踊れ LAラティーノの鳴動』(白水社、1996.2)

  • キャサリン・ダン『異形の愛』(ペヨトル工房、1996.7)

  • J・C・ハーツ『インターネット中毒者の告白』 (草思社、1996.11)(大森望と共訳)

  • オリヴァー・サイリャックス『世界犯罪百科全書』(原書房、1996.12)

  • ジョン・ウォーターズ『ジョン・ウォーターズの悪趣味映画作法』(青土社、1997.10)

  • マイケル・マッカラーズ『オースティン・パワーズ』(青山出版社、1998.5)

  • ブライアン・マスターズ『ジェフリー・ダーマー死体しか愛せなかった男』(原書房、1999.3)

  • デレク・A・スミシー『コリン・マッケンジー物語』(パンドラ、1999.10)

  • クリストファー・プリースト『イグジステンズ』(竹書房文庫、2000.4)

  • サイモン・クーパー『サッカーの敵』(白水社、2001.3)

  • ニール・ゲイマン『ネバーウェア』 (インターブックス、2001.7)

  • ジェームズ・エリソン『パニック・ルーム』(ヴィレッジブックス、2002.3)

  • R.v.クラフト=エビング著『クラフト=エビング変態性慾ノ心理』 (原書房、2002.7)

  • R・A・ラファティ『地球礁』(河出書房新社、2002.10)

  • フィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実(上・下)』(WAVE出版、2003.6)

  • スティーヴン・ピジック『アイデンティティー』(ヴィレッジブックス、2003.10)

  • ウィリアム・S・バロウズ『ソフトマシーン』(河出文庫、2004.6)(山形浩生と共訳)

  • ジョン・ウォーターズ『ジョン・ウォーターズの悪趣味映画作法』(青土社、2004.6)

  • ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』(国書刊行会、2004.7)

  • サイモン・クーパー『アヤックスの戦争 第二次世界大戦と欧州サッカー』(白水社、2005.2)

  • デニス・オニール『バットマンビギンズ』(SB文庫、2005.6)

  • シオドア・スタージョン『輝く断片』(河出書房新社、2005.6)(大森望編、大森望、伊藤典夫と共訳)

  • R・A・ラファティ『宇宙舟歌』(国書刊行会、2005.10)

  • ジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』(国書刊行会、2006.2)(浅倉久志、伊藤典夫と共訳)

  • マット・ウェイランド、ショーン・ウィルシー編『世界の作家32人によるワールドカップ教室』(白水社、2006.5)(越川芳明と共監訳)



    外部リンク

    Kiichiro Yanasita's Murderous Page - 本人よる公式ホームページ

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    2008年02月21日

    映画監督[田中絹代]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    田中絹代



    ・山口県
    | 国籍 = 日本
    | 民族 =
    | 血液型 =
    | 生年 = 1909
    | 生月 = 12
    | 生日 = 29
    | 没年 = 1977
    | 没月 = 3
    | 没日 = 21
    | 職業 = 俳優、映画監督
    | ジャンル = 映画
    | 活動期間 = 1924年-1977年
    | 活動内容 =
    | 配偶者 =
    | 家族 =
    | 公式サイト = http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kinuyo21/top.htm
    | 主な作品 = 愛染かつら、西鶴一代女
    | アカデミー賞 =
    | アリエル賞 =
    | AFI賞 =
    | 英国アカデミー賞 =
    | エミー賞 =
    | グラミー賞 =
    | ゴールデングローブ賞 =
    | ゴールデンラズベリー賞 =
    | ゴヤ賞 =
    | ジェミニ賞 =
    | ジニー賞 =
    | セザール賞 =
    | トニー賞 =
    | 日本アカデミー賞 =
    | フィルムフェア賞 =
    | ブルーリボン賞 =
    | ローレンス・オリヴィエ賞 =
    | その他の賞 =ベルリン国際映画祭最優秀主演女優賞
    1974年『サンダカン八番娼館 望郷』
    | 備考 =
    }}田中 絹代(たなか きぬよ、1909年12月29日 - 1977年3月21日)は、大正・昭和期の日本の俳優|女優・映画監督。黎明期の日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。また日本で二人目の女性映画監督でもある。



    出生・下関から大阪へ

    山口県下関市丸山町に父・田中久米吉、母・ヤスの四男四女の末娘として生まれる。母ヤスの実家小林家は下関で代々続く大地主の商家で、久米吉はそこの大番頭であった。二人は結婚して独立し、呉服商などを営む傍ら20軒ほども貸し家を持つ裕福な家であったが、絹代が3歳になって間もない1912年(明治45)1月、久米吉が病死。その後母は藤表(とうおもて)製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していった。1916年(大正5)絹代は下関市立王江尋常小学校に入学するが、経済的困窮のため充分な通学ができない状況だったという。この年20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪したことで田中一家は後ろ指を指されることになり、そのことが一家の経済事情を更に悪くした。翌1917年、一家の生活はついに行き詰まり、母ヤスの実兄を頼って大阪天王寺に移る。更に翌1918年4月、絹代は天王寺尋常小学校の三年に編入し、以後大阪で育つことになる。



    戦前・戦中〜アイドルスターとしての成功

    幼少時より、琵琶を習い、1919年に、大阪楽天地 (大阪)|楽天地の少女歌劇|琵琶少女歌劇の舞台に立つ。兄が松竹大阪支社で給仕として働いていた関係で、1924年に松竹下加茂撮影所に入所し、野村芳亭監督の『元禄女』でデビューする。まもなく、当時新進監督だった清水宏 (映画監督)|清水宏に『村の牧場』の主役に抜擢される。松竹蒲田撮影所に移った後の1927年、五所平之助監督の『恥しい夢』が好評を博する。その後、当時の人気スター鈴木傳明とのコンビで売り出し、松竹のドル箱スターとなり、会社の幹部に昇進する。また、五所監督による日本初のトーキー|トーキー映画、『マダムと女房』に主演し、トーキー時代になっても、スターとして迎えられる。特に、上原謙とのコンビで1938年に公開された『愛染かつら』は空前の大ヒットとなり、シリーズ化された。1940年には、溝口健二監督の『浪花女』に出演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自信を深める。



    戦後〜演技派スター・女性監督へ

    終戦後も、溝口監督の『女優須磨子の恋』や小津安二郎監督の『風の中の牝鶏』などに出演し、高い評価を得、1947年、1948年と連続して毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞する。順調に見えた女優生活だったが、1950年、日米親善使節として滞在していたアメリカ合衆国|アメリカから帰国した際、サングラスに派手な服装で投げキッスを行い、激しい世論の反発を受けてしまう。それ以降、スランプに陥り、松竹も退社する。この時期、メディアからは「老醜」とまで酷評されて打撃を受けている。1952年に溝口監督が彼女のために温めてきた企画である『西鶴一代女』に主演する。この作品はヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞し、彼女も完全復活を果たす。翌1953年には同じコンビで『雨月物語』を製作、ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞する。また、同年『恋文』を監督日本で二人目の女性監督であり、生涯に6本の作品を手がけた。。しかし、このことが溝口監督との仲を疎遠なものにしたといわれる。その後も、木下恵介監督の『楢山節考』、小津監督の『彼岸花』への出演、京マチ子主演の『流転の\xA1 2&H^!Y$N1i=P$J$I!">o$K1G2h3&$r%j!<%I$9$k3hLv$rB3$1$k0lJ}!"1970年の『樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅ノ木は残った』に出演以降、テレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役やNHK朝の連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。1974年に主演した熊井啓監督の映画『サンダカン八番娼館 望郷』の円熟した演技は世界的に高く評価され、ベルリン国際映画祭主演女優賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1977年3月21日、脳腫瘍のため死去。。最晩年、病床についた彼女は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た者に尋ねたという。

    死後、勲三等瑞宝章が授与された。同年3月31日、映画放送人葬が行われ、5000人が参列した。戒名は迦陵院釈尼絹芳大姉。墓所は神奈川県鎌倉市の円覚寺にある。



    没後の顕彰

    1985年には、従弟の小林正樹監督により、毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。第1回受賞者は吉永小百合。「恋多き女性」としても有名で、清水宏監督との同棲生活と破局、慶応義塾大学|慶応野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。その波乱に富んだ一生は、1987年に市川崑監督、吉永小百合主演で『映画女優』というタイトルで映画化された。



    代表作



    [おもな出演映画作品]


  • 元禄女(1924年、野村方亭、吉野二郎)

  • 村の牧場(1924年、清水宏)

  • 恥しい夢(1927年、五所平之助)

  • 大学は出たけれど(1929年、小津安二郎)

  • 伊豆の踊子(1933年、五所平之助)

  • 愛染かつら・前後編(1938年、野村浩将)

  • 暁に祈る(1940年、佐々木康)

  • 簪 (映画)|簪(1941年、清水宏)

  • 陸軍 (映画)|陸軍(1944年、木下恵介)

  • 結婚(1947年、木下恵介)

  • 女優須磨子の恋(1947年、溝口健二)

  • 不死鳥(1947年、木下恵介)

  • 夜の女たち(1948年、溝口健二)

  • 風の中の牝鶏(1948年、小津安二郎)

  • 銀座化粧(1951年、成瀬巳喜男)

  • 西鶴一代女(ヴェネチア国際映画祭国際賞受賞作品。1952年、溝口健二)

  • おかあさん(1952年、成瀬巳喜男)

  • 雨月物語(ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞、イタリア批評家賞受賞作品。第28回アカデミー賞衣裳デザイン賞白黒映画部門ノミネート作品。1953年、溝口健二)

  • 煙突の見える場所(ベルリン国際映画祭国際平和賞受賞作品。1953年、五所平之助)

  • 山椒大夫(ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作品。1954年、溝口健二)

  • 噂の女(1954年、溝口健二)

  • 黄色いからす(第15回ゴールデングローブ賞 外国語映画賞受賞作品。1957年、川頭義郎)

  • 異母兄弟(1957年、家城巳代治)

  • 楢山節考(1958年、木下恵介)

  • 彼岸花 EQUINOX FLOWER (1958年、小津安二郎)

  • この天の虹(1958年、木下恵介)

  • おとうと(カンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会表彰受賞作品。1960年、市川崑)

  • 赤ひげ(ヴェネチア国際映画祭男優賞(三船敏郎)、サン・ジョルジョ賞、ヴェネチア市賞、国際カトリック映画事務局賞受賞作品。1965年、黒澤明)

  • 三婆(1974年、中村登)

  • サンダカン八番娼館 望郷(ベルリン国際映画祭最優秀主演女優賞受賞作品。1974年、熊井啓)

  • 北の岬(1976年、熊井啓)

  • 大地の子守唄(1976年、増村保造)


    [出演テレビドラマ]


  • 樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅ノ木は残った(1970年)

  • 明日のしあわせ(1970年)

  • 女人平家(1971年)

  • たった一人の反乱(1973年)

  • りんりんと(1974年)

  • 前略おふくろ様(1975年):主人公の母親役

  • 幻の町(1976年)

  • 雲のじゅうたん(ナレーション)(1976年、NHK朝の連続テレビ小説)


    [監督映画作品]


  • 恋文(1953年)

  • 月は昇りぬ(1955年)

  • 乳房よ永遠なれ(1955年)

  • 流転の王妃(1960年)

  • 女ばかりの夜(1961年)

  • お吟さま(1962年)



    田中絹代を演じた女優


  • 乙羽信子?秋吉久美子・高橋かおり(1984年・テレビドラマ『花も嵐も踏み越えて 女優田中絹代の生涯』)

  • 吉永小百合(1987年・映画『映画女優 (1987年映画)|映画女優』)



    参考図書


  • 『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』古川薫著、文藝春秋刊

  • 『小説 田中絹代』新藤兼人著、文藝春秋刊



    関連項目


  • 田中絹代賞(毎日映画コンクール)…毎日新聞社・スポーツニッポン新聞社主催。出生地の下関市長が副賞を贈る。

  • 田中絹代メモリアル協会…出生地で墓がある下関市の遺品管理団体。映画祭や田中絹代賞への協力、遺品の展示、市民による墓参「花嵐忌(からんき)」などを催す。

  • 田中絹代メモリアル懇談会



    外部リンク


  • 田中絹代の部屋(田中絹代メモリアル協会)

  • キネマ旬報データベース「田中絹代

  • 日本映画データベース「田中絹代

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    2008年02月20日

    映画監督[篠田正浩]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    篠田正浩



    篠田 正浩(しのだ まさひろ、1931年3月9日 - )は、岐阜県岐阜市出身の映画監督。妻は、女優の岩下志麻。



    略歴


  • 早稲田大学文学部卒業。在学中は競走部に所属し、箱根駅伝のランナーとして花の2区を走ったことも。

  • 大学卒業後松竹に入社。1960年、『恋の片道切符』で監督デビュー。

  • 1986年『鑓の権三』で、ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。

  • 1990年『少年時代』で、日本アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞を受賞。



    監督作品


  • 恋の片道切符

  • 乾いた湖

  • 夕陽に赤い俺の顔

  • わが恋の旅路

  • 三味線とオートバイ

  • はなれ瞽女おりん

  • 夜叉ヶ池

  • 悪霊島

  • 瀬戸内少年野球団

  • 鑓の権三

  • 卑弥呼(1974年)

  • 少年時代

  • 写楽(1995年 原作:皆川博子)

  • 梟の城(1999年 原作:司馬遼太郎)

  • スパイ・ゾルゲ(2003年)

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    2008年02月19日

    映画監督[大林宣彦]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    大林宣彦



    大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年1月9日-)は、日本の映画監督。本人は「映画作家」と称している。広島県尾道市土堂出身。広島県立尾道北高等学校|尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報研究科教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。妻は映画プロデューサーの大林恭子。長女の大林千茱萸(ちぐみ)は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加している。劇作家・演出家の平田オリザ|平田オリザは甥にあたる。自主製作映画の先駆者として、コマーシャル|CMディレクターとして、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師"。




    来歴

    代々続く医家の長男として生まれる。「尾道出身」として有名だが、講演会等で大林自らが述べているところによれば、出生時には父親が岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)に勤務していたため、「生誕地」は岡山市内である。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授。2歳でブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳でフィルムに絵を刻んでアニメーションを作った(このとき作った『マヌケ先生』を元にして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が作られた)。15歳の時に小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。16才の夏休みに福永武彦の「草の花」を読み感銘を受ける。いつかフレデリック・ショパン|ショパンのピアノ曲のような映画を作りたい、と思いそれは30年後『さびしんぼう_(映画)|さびしんぼう』で実現する。1956年上京し、成城大学在学中から8ミリ|8mmで作品を発表。自主製作映画の先駆者として早くから名前を知られた。1960年に大学を中退。1963年に初の16mm作品『喰べた人』がベルギー国際実験映画祭で\xA1 ?3::0wFCJL>^!#!XHxF;!Y!"!XCf;3F;!Y!"!X?)$Y$??M!Y!"!XComplexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』、『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』などがアンダーグラウンド (文化)|アングラブームに乗って反響を呼ぶ。60年代後半からは草創期のテレビコマーシャル(CM)にCMディレクターとして本格的に関わり始め、あまりのヒットに社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「本田技研工業|ホンダロードパル」のソフィア・ローレン、「ユニリーバ・ジャパン|ラックス化粧品」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「レナウン・シンプルライフ」のリンゴ・スターなどの起用で、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなり、また山口百恵・三浦友和コンビの「江崎グリコ|グリコチョコレート|アーモンドチョコレート」、高峰三枝子・上原謙の「日本国有鉄道|国鉄フルムーン」など10年間で製作したテレビCMは2000本を越え、テレビCMを新しい映像表現として確立したとされる。また\xA1 !"<+?H$b6e=#EENO$NCMに出演したことがある。1977年の\xA1 !X%O%&%9 _(映画)|HOUSE』で商業映画に進出。実写とアニメの合成など様々な特撮を使って見せる華麗な映像世界は、世の映画少年を熱狂させた。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出し(この流れから自主映画出身者として大森一樹、森田芳光、CM出身者として市川準らが出た)、日本映画を活性化させた。先達として自主映画仲間の高林陽一らが存在するものの自己プロダクション+ATGという経路であり、いきなりメジャーの東宝映画でデビューというのは当時画期的であった。メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時副社長(のち社長、会長)の松岡功と、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン岡本喜八監督の口添えが大きかったといわれる。同年の『ブラック・ジャック (実写版)|ブラック・ジャック 瞳の中の訪問者』と共にブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞新人賞受賞。1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生 (映画)|転校生』を発表。『時をかける\xA1 >/=w (1983年の映画)|時をかける少女』、『さびしんぼう (映画)|さびしんぼう』と合わせ"#尾道三部作|尾道三部作"として多くの熱狂的な支持を集め、ロケ地巡りのファンを増やした。これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「お子様ランチ」「おもちゃ箱」と酷評されることもあった初期作品に比べると、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がる「フィルム・コミッション」の先駆としても評価されている。その後も数多くの作品を世に送り出している。



    主な監督作品


  • 「EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ」(1967年3月8日公開)

  • 「ハウス_(映画)|HOUSE ハウス」(1977年7月30日公開、東宝) 兼製作

  • 「ブラック・ジャック (実写版)|瞳の中の訪問者」(1977年11月26日公開、ホリプロ/東宝) 兼出演

  • 「ふりむけば愛」(1978年7月22日公開、東宝)

  • 「金田一耕助の冒険」(1979年7月14日公開、東映)

  • 「人はそれをスキャンダルという」第1回(1979年11月21日放送、東京放送|TBS)

  • 「ねらわれた学園 (映画)|ねらわれた学園」(1981年7月11日、東宝)

  • 「転校生 (映画)|転校生」(1982年4月17日公開、松竹)

  • 「可愛い悪魔」(1982年8月10日放送、日本テレビ放送網|日本テレビ)

  • 「時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女」(1983年7月16日公開、東映) 兼脚本/編集

  • 「麗猫伝説」(1983年8月30日放送、日本テレビ)

  • 「廃市」(1984年1月2日公開、ATG) 兼プロデューサー/企画/編集/作曲

  • 「少年ケニヤ」(1984年3月10日公開) 兼編集

  • 「天国にいちばん近い島」(1984年12月15日公開、東映) 兼潤色/編集

  • 「さびしんぼう (映画)|さびしんぼう」(1985年4月13日公開、東宝) 兼脚本/編集

  • 「姉妹坂」(1985年12月21日公開、東宝)

  • 「彼のオートバイ、彼女の島」(1986年4月26日公開、東宝) 兼編集

  • 「四月の魚」(1986年5月31日公開、ジョイパックフィルム) 兼企画/脚本/編集

  • 「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986年10月4日公開、ATG) 兼編集/音楽

  • 「漂流教室」(1987年7月11日公開、東宝東和) 兼潤色

  • 「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるおしきひとびとの群」(1988年3月29日公開、アートリンクス) 兼脚本/編集

  • 「異人たちとの夏」(1988年9月15日、松竹)

  • 「北京的西瓜(ぺきんのすいか)」(1989年11月18日公開、松竹) 兼編集

  • 「ふたり」テレビドラマ(NHK)版(1990年)

  • 「ふたり」(1991年5月11日公開、松竹) 兼編集

  • 「私の心はパパのもの」(1992年6月13日公開、東北新社/ギャラクシーワン) 兼編集
    第16回日本アカデミー賞優秀監督賞

  • 「彼女が結婚しない理由」(1992年6月13日公開、東北新社/ギャラクシーワン) 兼編集
    第16回日本アカデミー賞優秀監督賞

  • 「青春デンデケデケデケ」(1992年10月31日公開、東映) 兼編集
    第16回日本アカデミー賞優秀監督賞

  • 「はるか、ノスタルジィ」(1993年2月20日公開) 兼脚本/編集
    第17回日本アカデミー賞優秀編集賞

  • 「水の旅人 侍KIDS|水の旅人 -侍KIDS-」(1993年7月17日公開 東宝) 兼編集
    第17回日本アカデミー賞優秀編集賞

  • 「女ざかり」(1994年6月18日公開、松竹) 兼脚本/編集

  • 「あした (映画)|あした」(1995年9月23日公開) 兼編集

  • 「三毛猫ホームズの推理 <ディレクターズカット>(1998年2月14日公開、PSC、ザナドゥー) 兼編集

  • 「三毛猫ホームズの黄昏ホテル」(1998年2月21日放送、テレビ朝日) 兼脚本

  • 「SADA 戯作・阿部定の生涯」(1998年4月11日公開)
    第48回ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞

  • 「風の歌が聴きたい」(1998年7月17日公開、ザナドゥー) 兼脚本/編集

  • 「麗猫伝説 劇場版」(1998年8月16日公開、PSC) 兼編集/作曲

  • 「あの、夏の日|あの、夏の日 〜とんでろ じいちゃん〜」(1999年7月3日公開、東映) 兼脚本

  • 「マヌケ先生」(2000年9月30日公開、PSC) 兼原作/脚本

  • 「淀川長治物語・神戸篇 サイナラ」(2000年9月30日公開、PSC)

  • 「告別」(2001年放送、BS-i) 兼脚本

  • 「なごり雪 (映画)|なごり雪」(2002年9月28日公開、大映) 兼脚本/編集

  • 「理由 (小説)|理由」(2004年12月18日公開、アスミック・エース) 兼脚本

  • 「理由(日テレヴァージョン)」(TVドラマ 2005年)

  • 「転校生 -さよなら あなた-」(2007年6月23日公開、角川映画) 兼脚本/潤色/編集/撮影台本

  • 「22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語」(2007年夏公開、角川映画) 兼脚本



    その他の主な作品


  • すばらしい蒸気機関車(1970年10月10日公開、高林陽一監督) 音楽

  • 最後の蒸気機関車(1975年1月11日公開、高林陽一監督) 音楽

  • 本陣殺人事件(1975年9月27日公開、高林陽一監督) 音楽

  • 新・木枯し紋次郎(1977年10月5日〜1978年3月29日放送、テレビ東京|東京12チャンネル) タイトル

  • 親子ねずみの不思議な旅(1978年3月11日公開、フレッド・ウォルフ/チャールズ・スウェンソン監督、日本ヘラルド映画) 歌詞

  • ホワイト・ラブ(1979年8月4日公開、小谷承靖監督、東宝) 出演

  • MOMENT(1981年4月4日公開、手塚真監督) 出演

  • 俗物図鑑(1982年11月8日公開、内藤誠監督) 出演

  • アイコ十六歳(1983年12月17日公開、今関あきよし監督、日本ヘラルド映画|日本ヘラルド) 製作総指揮

  • 乙女物語 お嬢様危機イッパツ!(1990年12月8日公開、内藤忠司監督、バンダイ) 出演

  • MAKING OF DREAMS 夢 黒澤明・大林宣彦映画的対話 演出・インタビュー聞き手)(1990年) 

  • 金なら返せん!(1994年12月9日放送) 出演

  • タイム・リープ(1997年6月7日公開、今関あきよし監督) 監修



    尾道三部作

    大林宣彦が、出身地尾道を舞台に撮影した映画の代表作として認知されている3つの映画作品のこと。後に、同じように尾道を舞台にした作品が同じく3つ造られたため、これを“新尾道三部作”と称すこともある。

  • 尾道三部作
    『転校生 (映画)|転校生』(1982年)
    『時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女』(1983年)
    『さびしんぼう (映画)|さびしんぼう』(1985年)

  • 新尾道三部作
    『ふたり』(1991年)
    『あした (映画)|あした』(1995年)
    『あの、夏の日』(1999年)★音楽関連

  • 坂上香織 「香織の、―わたしものがたり。」 監督作品(VHS/LD) [1988年09月、東芝EMIより発売]
    坂上のイメージビデオ(いわゆるミュージッククリップ)で、坂上のデビュー曲でこの作品に収録された「レースのカーディガン」PV撮影において、尾道三部作で使用されたロケ地を随所に織り交ぜて撮影し、「大林宣彦ワンダーワールド作品」と銘打って発売された、ミュージック関連の映像としては当時異色の作品。坂上が一人三役を演じ、合成演出を施した幻想的でメランコリーな雰囲気だが、非常に美しい仕上がりの作品である。



    テレビ版から劇場版

    大林作品にはテレビで製作された作品を後に劇場版として公開する、または劇場公開に先行してテレビで放送する、というケースが多く見られる。

    「理由」はWOWOWで放送、劇場公開の後、さらに日本テレビで「日テレヴァージョン」が放送された。

  • 麗猫伝説 (日本テレビ「火曜サスペンス劇場」1983年8月30日放送)
    :→ 劇場公開 1998年8月16日

  • 私の心はパパのもの (日本テレビ「水曜グランドロマン」1988年11月30日放送)
    :→ 劇場公開 1992年6月13日

  • ふたり (NHK「子どもパビリオン」1990年11月9日・16日放送)
    :→ 劇場公開 1991年5月11日

  • 彼女が結婚しない理由 (日本テレビ「水曜グランドロマン」1990年12月26日放送)
    :→ 劇場公開 1992年6月13日

  • はるか、ノスタルジィ (WOWOW 1992年10月25日放送)
    :→ 劇場公開 1993年2月20日

  • マヌケ先生(原作・総監督、中国放送/TBS 1998年1月24日)
    :→ 劇場公開 2000年9月30日

  • 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ (テレビ朝日「日曜洋画劇場」1999年11月7日放送)
    :→ 劇場公開 2000年9月30日

  • 告別 (BS-i 2001年2月24日放送)
    :→ 劇場公開 2001年7月14日

  • 理由 (WOWOW「ドラマW」2004年4月29日放送)
    :→ 劇場公開 2004年12月18日
    :→ 日本テレビ「DRAMA COMPLEX」 2005年11月8日放送



    関連項目


  • :Category:大林宣彦の監督映画

  • 山中恒(映画の原作となった作品が多い)

  • 宮崎尚志

  • 黒澤明

  • 林海象

  • 石森史郎

  • 原田知世

  • ウッチャンナンチャン

  • パパとムスメの7日間

  • ロリコン



    外部リンク


  • 大林監督のブログ

  • 大林宣彦の映画 普遍的個人映画--A MOVIE

  • 尾道撮歩記

  • インタビュー

  • 純愛映画の名手 映画秘宝.com インタビュー


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    2008年02月17日

    映画監督[木下恵介]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    木下恵介



    木下 恵介(きのした けいすけ、1912年(大正元年)12月5日 - 1998年(平成10年)12月30日)は、日本の映画監督、脚本家。本名、木下 正吉。正字での表記は「木下 惠介」。実弟に作曲家の木下忠司、実妹に脚本家の楠田芳子がいる。



    略歴

    静岡県浜松市にて食料品店を営む父・周吉、母・たまの8人兄弟の4男として生まれる。浜松工業学校(現静岡県立浜松工業高等学校|浜松工業高等学校)紡績科を卒業後上京。1933年(昭和8年)松竹蒲田撮影所に入り島津保次郎監督の撮影助手となり、翌1934年(昭和9年)には新たに作られた松竹大船撮影所に移り、島津監督の下助監督となる。1940年(昭和15年)に徴兵され中国を転戦も翌年、戦傷の為内地送還され帰国。 1943年(昭和18年)に監督になり『花咲く港』で山中貞雄賞を受賞し、華々しくデビューした。同年、黒澤明も監督デビューし終生のライバルとして日本映画界を支えてゆくこととなる。また、木下組から小林正樹、川頭義郎、松山善三、勅使河原宏、吉田喜重、山田太一 (脚本家)|山田太一等々多数の映画人が巣立っていった。1951年(昭和26年)に『カルメン故郷に帰る』で戦後初の長編カラー映画を発表。同作は、日本放送協会|NHK映画ベストテン第1位、日本映画文化賞を受賞する。1954年(昭和29年)『二十四の瞳 (映画)|! 二十四の瞳』で、ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞、外国語映画賞、ゴールデングローブ賞など数々の賞を受賞したが、その後、『戦場の固き約束』などが、興行上の採算性に対する疑義で松竹側からお蔵入りにされるなどの不遇にあい、 1964年(昭和39年)に松竹を退社し、テレビ界にも進出。『#木下恵介アワー|木下恵介アワー』などテレビドラマも製作した。後に木下恵介プロダクション(木下プロダクション→現・ドリマックス・テレビジョン)を設立する。1976年(昭和51年)『スリランカの愛と別れ』で再び映画監督に、また1979年(昭和54年)には松竹に復帰。映画、テレビドラマの監督と同時に脚本も数多く手がけている。1977年(昭和52年)紫綬褒章を受章。1984年(昭和59年)には勲四等旭日小綬章を受章。1991年(平成3年)に文化功労者に選出される。! 1948年(昭和23年)から晩年近くまで、神奈川県藤沢市辻董 27'$N?9$ K=;$s$G$$$?!#1998年(平成10年)12月30日午前3時10分、脳梗塞のため東京都港区 (東京都)|港区の自宅で死去。享年86。生涯にメガホンをとった映画は全49作である。死後その功績に対し、エランドール特別賞が贈られた。1960年代までは黒澤明と並ぶ日本映画の両雄と見なされ、国内での評価はむしろ黒澤を上回ることが多かった。しかし、海外での受賞が少ないこと、基本的に日常派で華々しい話題性や刺激に乏しい作品が多いこともあり、晩年は急速に忘れられた巨匠と化しつつあった。亡くなった年の紅白歌合戦でその年の物故者を振り返るコーナーで木下を取り上げた際、アナウンサー(久保純子)が名前を読み間違え(「キノスケ」と発言、即訂正)、ファンを嘆かせたこともある。しかし、その洗練された話法やテクニック、社会的視点の鋭さなど、死後ゆっくりと再評価が進んでいる。今日で言う成田離婚に近い短期の結婚生活を除いて生涯独身。小津安二郎と同じく作品ではほとんど性描写をしない作家でありセクシャリティは定かではないが、女性的な言葉遣いで知られていた。



    監督作品





    テレビ


  • 木下恵介アワー">木下恵介アワー

    喜びも悲しみも幾歳月(大辻司郎、松本典子)
    二人の星(園井啓介、小林千登勢)
    記念樹(馬渕晴子)
    今年の恋(加藤剛、栗原小巻)
    女と刀(中原ひとみ)
    もがり笛(江原真二郎)
    おやじ太鼓(進藤英太郎、風見章子)
    3人家族(竹脇無我、栗原小巻)
    兄弟(津坂匡章、あおい輝彦、秋山ゆり、沢田雅美)
    あしたからの恋(尾崎奈々、大出俊)
    二人の世界 (テレビドラマ)|二人の世界(竹脇無我、栗原小巻)
    たんとんとん(森田健作、ミヤコ蝶々)
    太陽の涙(加藤剛、山本陽子)
    幸福相談(倍賞千恵子、山口崇)
    思い橋(藤岡弘、上村香子、松坂慶子)
    わが子は他人(松山省二、杉浦直樹、音無美紀子、林美智子 (女優)|林美智子)



    伝記


  • 三国隆三『木下恵介日本中を泣かせた映画監督』(展望社、1999年) ISBN 4885460174

  • 長部日出雄『天才監督木下惠介』(新潮社、2005年) ISBN 410337408X



    関連項目


  • 日本の映画監督一覧

  • 脚本家一覧



    外部リンク


  • 日本映画データベース

  • 木下恵介記念館

  • 木下恵介・映画の世界

  • 浜松映画祭

  • 辻堂駅開設40周年記念誌に特別寄稿した文


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    2008年02月16日

    映画監督[北村龍平]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    北村龍平



    北村 龍平(きたむら りゅうへい、1969年5月30日 - )は、映画監督。大阪生まれ。自主制作映画『DOWN TO HELL』が第1回インディーズムービー・フェスティバルでグランプリを受賞。その後インディーズムービー・フェスティバルのスカラシップ作品として監督した『VERSUS ヴァーサス』で一躍有名になる。ドリー撮影・クレーン撮影などを多用した、カメラワークの激しい「スタイリッシュな」映像には定評がある。




    主な監督作品




    [映画]


  • 『ゴジラ FINAL WARS』(2004年、東宝)

  • 『スカイハイ 劇場版』(2003年)

  • 『荒神』(2003年)

  • 『ALIVE −アライヴ−』(2003年)

  • 『あずみ』(2003年)

  • 『the messenger −弔いは夜の果てで−』(2002年)

  • 『VERSUS ヴァーサス』(2001年)

  • 『ヒート・アフター・ダーク』(1999年)

  • 『DOWN TO HELL』(1997年)


    [ゲーム]


  • メタルギアソリッド|METAL GEAR SOLID THE TWIN SNAKES(2004年) ※ムービー部分の演出


    [CM]


  • 京セラ 携帯電話 A1403K(2004年)



    外部リンク


  • Ryuhei Kitamura.com


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    2008年02月15日

    映画監督[実相寺昭雄]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    実相寺昭雄



    日本
    | 民族 = 日本人
    | 血液型 =
    | 生年 = 1937
    | 生月 = 3
    | 生日 = 29
    | 没年 = 2006
    | 没月 = 11
    | 没日 = 29
    | ジャンル = 映画監督、演出家、脚本家、小説家
    | 活動時期 = 1959年 -2006年
    | 活動内容 =
    | 備考 =
    }}
    実相寺 昭雄(じっそうじ あきお、1937年3月29日 - 2006年11月29日)は、映画監督、演出家、脚本家、小説家。東京芸術大学|東京藝術大学名誉教授。



    来歴・人物

    早稲田大学第二文学部卒業後、東京放送|TBSに入社し演出家として活動。殊にウルトラシリーズの演出で知られる。作風はとにかく「エキセントリック」の一語に尽きる。特に斜めからのアングル、逆光を浴びる登場人物などのカットを多用する。なお、話の内容も現実味を含んだ夢幻なのか、幻想のような現実なのかよくわからない世界を舞台にした話が多く、映像効果も非常にマッチしたものが多いので実相寺マジックと呼ばれていた。映画監督としては日本人特有の民族性・風土をテーマにした作品で有名。大島渚グループとの親交が深く、劇場用デビュー中篇「宵闇せまれば」の脚本を大島が執筆したほか、田村孟、佐々木守、石堂淑郎らの脚本が多い。とりわけ、現在からは信じがたいほど左翼色濃厚な作家だった石堂とはデビュー長編「無常」以下「曼荼羅」「哥」のATG三部作でタッグを組み、京都・滋賀・福井にかけての陰鬱な景色を切り取りながらの強烈なディスカッションは当時の日本映画に大きな衝撃を与えた。容赦ない性描写も話題を呼び、「膣掃除」の異名を奉られたこともある。多くの作品でタッグを組んだ美術・池谷仙克、照明技師・中堀正夫とともに独\xA1 FC$J%i%$%F%#%s%0$r9T$$!"$^$?!"8D@-$N6/$$!V 『無常』でロカルノ国際映画祭グランプリを、『波の盆』で芸術祭大賞受賞。他にカンヌCM映画祭グランプリも受賞している。荒俣宏原作『帝都物語』がヒットした。ウルトラシリーズの話の監督、または脚本を担当する際は、ウルトラ戦士の光線技を使って怪獣を倒させるといった行為を嫌っていた傾向があり、実相寺が担当する話でウルトラマンたちが敵を倒す時、ほとんど光線技を使っていない。ただし全くなかったというわけでもなく、「帰ってきたウルトラマン」や「ウルトラマンティガ」では光線技を使用している。
    また怪獣をデザインする際、この世と思えないほどグロデスクな容姿の怪獣を描きたかったのだが、「ゴールデンタイムで食事中に視聴者が不愉快になる。」という理由で却下されている。実相寺のクラシック音楽のマニアぶりは、早くから演出作品のバックグラウンドミュージック|BGMに反映されていたが、やがて『オーケストラがやってきた』の演出、音楽雑誌への寄稿と徐々に仕事の一角を占めるようになり、ついにはオペラ演出にも進出。「イドメネオ」「カルメン」「魔笛」と多くの舞台を手がけ、東京藝術大学演奏芸術センター教授として教壇にも立った。妻は女優の原知佐子。娘の実相寺吾子も女優。また、一家の「長男」とされる愛用のアライグマのぬいぐるみ、ちな坊も度々自らの作品に登場させている。脚本執筆時には万福寺百合(まんぷくじ ゆり)、川崎高のペンネームも使用していた。鉄道ファン、特に路面電車ファンとしても知られ、雑誌『東京人』などにコラムなどを度々執筆しているほか、2003年には「昭和情景博物館」というストラクチャー食玩の監修も手がけた。2006年11月29日午後11時45分、胃癌のたぁ aEl5~ETJ85~6h$NIB1!$G;`5n!#5}G/69。戒名は龍徳院禅徹定昭居士。書道をたしなみ、彼が題字を揮毫した漫画作品なども複数存在する。以前書道雑誌『墨』にインタビューを受けたこともあり、自らの書道は唐の顔真卿の影響があると述べたこともあった。



    演出作品




    [テレビ(含脚本)]


  • でっかく生きろ

  • 現在の主役 ウルトラQのおやじ

  • ウルトラマン(第14話『ガマクジラ|真珠貝防衛指令』、第15話『ガヴァドン|恐怖の宇宙線』、第22話『テレスドン|地上破壊工作』、第23話『ジャミラ|故郷は地球』、第34話『スカイドン|空の贈り物』、第35話『シーボーズ|怪獣墓場』)

  • レモンのような女

  • ウルトラセブン(第8話『メトロン星人|狙われた街』、第12話『スペル星人|遊星より愛をこめて』<現在欠番>、第43話『ロボット長官|第四惑星の悪夢』、第45話『ペロリンガ星人|円盤が来た』)

  • 風 (テレビドラマ)|風(演出の他、主題歌の作詞も川崎高名義で担当)

  • 怪奇大作戦(第4話『恐怖の電話』、第5話『死神の子守唄』、第23話『呪いの壷』、第25話『カドニウム光線発振機|京都買います』)

  • Oh!それ見よ

  • 帰ってきたウルトラマン(第28話『バリケーン|ウルトラ特攻大作戦』の脚本)

  • シルバー仮面(第1話『ふるさとは地球』、第2話『地球人は宇宙の敵』)

  • 子連れ狼 (萬屋錦之介版)|子連れ狼(オープニング及びタイトルバックの演出)

  • 長崎犯科帳(同上)

  • 二十四の瞳(1980年、アニメ作品)

  • 波の盆(1983年)

  • 火曜サスペンス劇場『青い沼の女』(1986年)出演:田村亮 (俳優)|田村亮、中山仁、堀内正美、原知佐子、寺田農、原保美、岡村春彦

  • ウルトラマンティガ(第37話『マノン星人|花』、第40話『バクゴン|夢』)

  • ウルトラマンダイナ(第38話『ブンダー|怪獣戯曲』)

  • ウルトラQ dark fantasy(第24話『雛|ヒトガタ』、第25話『異なもの|闇』、サウンドトラックCDの題字)

  • ウルトラマンマックス(第22話『魔デウス|胡蝶の夢』、第24話『メトロン星人|狙われない街』)

  • 怪奇大作戦 セカンドファイル(シリーズ構成、脚本、題字)*この作品が遺作となっている。


    [映画]


  • 宵闇せまれば(1969年)出演:斎藤憐、清水紘治、樋浦勉

  • 無常 (映画)|無常(1970年、ATG)出演:田村亮 (俳優)|田村亮、司美智子、岡田英次、ささきいさお|佐々木功、寺田農、小林昭二

  • 曼陀羅 (映画)|曼陀羅(1971年、ATG)出演:岸田森、田村亮、清水紘治、桜井浩子、草野大悟、小林昭二、原保美

  • 哥(うた)(1972年、ATG)出演:篠田三郎、八並映子、桜井浩子、田村亮、岸田森、東野孝彦、内田良平 (俳優)|内田良平、嵐寛寿郎

  • あさき夢みし(1974年、ATG)出演:ジャネット八田、花ノ本寿、寺田農、原知佐子、岸田森、篠田三郎、天田俊明、毒蝮三太夫

  • 歌麿 夢と知りせば(1977年)出演:岸田森、山城新伍、成田三樹夫、岡田英次、東野英心、緑魔子、岸田今日子、桜井浩子、平幹二朗

  • 実相寺昭雄監督作品ウルトラマン(1979年)出演:小林昭二、黒部進、毒蝮三太夫、二瓶正也、桜井浩子

  • 帝都物語(1988年)出演:勝新太郎、嶋田久作、西村晃、高橋幸治、佐野史郎、寺田農、平幹二朗

  • 悪徳の栄え(1988年)出演:清水紘治、李星蘭、石橋蓮司、寺田農、前原祐子、佐野史郎、原保美

  • ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説(1990年)出演:柴俊夫、荻野目慶子、風見しんご、中山仁、高樹澪、堀内正美、小林昭二、毒蝮三太夫、黒部進、寺田農

  • 屋根裏の散歩者(1992年)出演:三上博史、宮崎ますみ、六平直政、加賀恵子、嶋田久作、鈴木奈緒 (AV女優)|鈴木奈緒、寺田農、堀内正美

  • D坂の殺人事件(1998年)出演:真田広之、岸部一徳、嶋田久作、大家由祐子、六平直政、三輪ひとみ、寺田農、堀内正美、東野英心、岡野進一郎、原知佐子、浅野忠信

  • 姑獲鳥の夏 (映画)|姑獲鳥の夏(2005年)出演:堤真一、永瀬正敏、阿部寛、原田知世、田中麗奈、いしだあゆみ

  • 乱歩地獄『鏡地獄』(2005年)出演:浅野忠信、成宮寛貴、市川実日子、寺島進、原知佐子、堀内正美、寺田農

  • シルバー假面(2006年)出演:ニーナ、渡辺大、水橋研二、石橋蓮司、嶋田久作、ひし美ゆり子、堀内正美、寺田農

  • 夢十夜|ユメ十夜『第一夜』(2007年)出演:小泉今日子、松尾スズキ、堀内正美、寺田農


    [オリジナルビデオ演出]


  • アリエッタ(1989年、KUKI)出演:加賀恵子、清水大敬

  • ラ・ヴァルス(1990年、KUKI)出演:樹まり子、加賀恵子、前原祐子、寺田農、堀内正美、小林ひとみ

  • 実相寺昭雄の不思議館『受胎告知』(1992年)出演:加賀恵子、寺田農

  • 堕落(1992年)出演:加賀恵子、堀内正美、高樹澪、奥村公延

  • 私、なんでもします!(1993年)出演:加賀恵子、堀内正美


    [ラジオドラマ]


  • ウルトラQ倶楽部


    [CM]


  • 資生堂CM『初恋編』(カンヌ国際広告祭でグランプリ受賞/17歳時の薬師丸ひろ子が主演)

  • エスビー食品CM『ゴールデンレインボーカレー』「にわとり篇」「牛篇」「パッケージ篇」出演/水谷豊 、演出補助/岸田森

  • エスビー食品CM『スナックチップ』「インタビュー篇」「階段篇」「コロコロ(寄り)」「寄席篇」「ポスター篇」「影篇」「待ち人」「和歌」「新聞」「カラッポ」 「タイコ」「浜辺」「ジャングル」「少女(語らい)」「少女(散歩)」「人形」「人形 A型」「人形 B型」「どうぞ」 「人気絶頂」「御本家」出演/水谷豊、演出補助/岸田森

  • エスビー食品CM『スナックトースト』「野球」「外野フライ」「キャッチャーフライ」「ご一緒に」「カリカリ」「まざっちゃった」「パターン」「飲み物」「八木節」出演/水谷豊、演出補助/岸田森


    [監修]


  • 地球防衛少女イコちゃん 2(監督:河崎実)

  • 超高層ハンティング(監督:服部光則)

  • ミカドロイド(監督:原口智生)

  • オリジナルビデオ実相寺昭雄の不思議館(実相寺昭雄のミステリーファイル)シリーズ(「受胎告知」と、各エピソード繋ぎにある寺田農の出演シーンは演出)

  • マイ・ブルー・ヘヴン わたし調教されました(監督:寺田農)音楽監修

  • 東京デカメロン(監督:小林浩一)

  • いかレスラー(監督:河崎実)

  • 日本以外全部沈没(監督:河崎実)

  • ヅラ刑事(監督:河崎実)

  • プレイステーション用ソフト有限会社地球防衛隊(監修・演出・タイトル文字)

  • 昭和情景博物館/都電の風景(企画監修・玩具菓子/ハピネット)

  • 昭和情景博物館/金魚鉢の光(企画監修・玩具菓子/ハピネット)



    小説


  • 星の林に月の舟

  • ウルトラマン・ゴールドラッシュ作戦(1993年、小学館)スーパークエスト文庫

  • ウルトラセブン・狙われた星(1993年、小学館)スーパークエスト文庫)



    著書


  • 闇への憧れ 所詮、死ぬまでのヒマツブシ

  • ウルトラマンのできるまで(1988年、筑摩書房)ちくまプリマーブックス13

  • 夜ごとの円盤 怪獣夢幻館

  • ウルトラマンに夢見た男たち(筑摩書房)ちくまプリマーブックス37

  • 旅の軽さ

  • ウルトラマンの東京

  • チェレスタは星のまたたき

  • ナメてかかれ

  • 怪獣な日々 私の円谷英二100年

  • 昭和電車少年



    実相寺昭雄(に相当する役)を演じた俳優


  • 三上博史〔吉良平治〕「ウルトラマンを作った男たち」

  • 橋爪淳〔仙童〕ウルトラQ dark fantasy第25話『闇』



    ウルトラシリーズにおける裏話




    [『ウルトラマン』]

    佐々木守とのコンビで活躍。ウルトラマンがスペシウム光線や八つ裂き光輪を使わない、地球人の一方的な都合だけで怪獣を倒すことの是非をテーマに掲げる等、他の監督の演出とは一線を画す内容となっている。


    [ 第22話「地上破壊工作」]

    本作品の脚本は、クレジット上では佐々木守となっているが、実際は実相寺の脚本。


    [ 第34話「空の贈り物」]

    本作品では、作戦室を飛び出した時に持っていたカレースプーンのままで変身しようとしたハヤタ隊員のシーンが有名だが、これは撮影後に円谷プロ内部で問題になった。この演出に噛み付いたのは、黒澤明の下で長年助監督を務めてきた、ベテラン監督の野長瀬三摩地。当時、東京放送|TBSから出向という形で演出をしていた実相寺とはキャリア等の面で相当な開きがある。その野長瀬からすれば、<完全無欠の神にも等しい存在であるべきヒーロー・ウルトラマン(=ハヤタ隊員)にあんな間抜けな行動をとらせるとは、若造め何を考えていやがるんだ>という気持ちだったのだろう。上原正三の著書・『ウルトラマン島唄』によれば、金城哲夫に説得された野長瀬は渋々ながら、それを聞き入れたようである。今でこそ、名監督のほまれ高い実相寺であるが、その自伝的小説『星の林に月の舟』やその映像化作品に見られるように、その演出はあちらこちらで問題を起こしていたようである。スプーンでの変身シーンは、現在でも『ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹』や『おねがいマイメロディ』などのアニメでパロディ化されるなど、有名なシーンの一つとなっている\xA1 !#$^$?!"%O%d%?$N%U%#%.%e%"2=$N:]$K!"%Y!<%?!<%+%W%;%k$H%9%W!<%s$,N>J}IUB0$7$?;v$b$"$k!#$^$?8e$K%&%k%H%i%7%j!<%:$=$N$b$N$G%O%d%?Bb0wLr$N9uIt?J;a$K$h$k%;%k%U%Q%m%G%#$bEP>l$7$?!#


    [『ウルトラセブン』]




    [ 第8話「狙われた街」]

    本作は、ウルトラセブン (架空のキャラクター)|モロボシ・ダン(=ウルトラセブン)とメトロン星人との宇宙人同士が卓袱台を挟んで会見するシーンが有名だが、当時のTBSは、ウルトラシリーズについては海外への作品の輸出を視野に入れたうえで番組製作を行っており、日本を思わせるものは極力入れない方針であった。故に製作開始の時の申し合わせに際しても、関係者に対してこのことは厳守するように伝えていた。しかし実相寺はこの事を敢えて無視し、劇中に卓袱台を登場させ、放送後にプロデューサーから怒号された(辰巳出版『ウルトラマンAGE』に於ける実相寺へのインタビュー記事より要約)。
    この回及び同時に撮影された第12話「遊星より愛をこめて」(現在欠番・詳細はスペル星人#第12話の欠番について|こちらを参照のこと)の放映後、実相寺はしばらく『ウルトラセブン』の演出を離れ、京都で時代劇の演出を担当することとなる。これはこの卓袱台事件に対しての懲罰人事異動|人事であったとも言われるが、真相は不明である。本作の脚本は金城哲夫が担当したが、ラストシーンに流れ\xA1 $k%J%l!<%7%g%s$O:4!9LZ

    [『ウルトラマンティガ』]




    [ 第37話「花」]

    本作のクライマックス、桧舞台でのマノン星人との一騎打ちでは、客席からGUTS隊員たちが見つめているという案もあったという。マノン星人(人間体)に原知佐子、三輪ひとみ。


    [ 第40話「夢」]

    本作品の撮影時期は、自ら監督の映画『D坂の殺人事件』クランクアップの頃であり、同作品から嶋田久作を始めとする出演者が大挙カメオ出演している。基本的にテレビドラマに出ない浅野忠信の出演もレアである。


    [『ウルトラマンダイナ』]




    [ 第38話「怪獣戯曲」]



    [『ウルトラマンマックス』]




    [ 第22話「胡蝶の夢」]




    [ 第24話「狙われない街」]




    関連項目


  • 円谷プロダクション

  • 成田亨

  • 日本アート・シアター・ギルド公開作品の一覧

  • 九鬼 (アダルトビデオ)

  • 宇宙家族カールビンソン

  • 庵野秀明(実相寺の影響を多大に受けたアニメーション監督。庵野作品にも実相寺と酷似したアングルや描写が多用されている)



    外部リンク


  • 鬼才・実相寺昭雄の夢幻ワールド


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    2008年02月13日

    映画監督[崔洋一]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    崔洋一



    崔 洋一(さい よういち、チェ・ヤンイル、???、男性、1949年7月6日 佐久市|佐久 - )は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。日本映画監督協会理事長、宝塚造形芸術大学教授でもある。



    来歴・人物

    1949年7月6日、長野県佐久市に生まれる。1968年、東京朝鮮中高級学校を卒業。東京綜合写真専門学校中退後、照明助手として映画界に入り、小道具を経てまもなく演出部に転向、1976年、『愛のコリーダ』(監督大島渚、主演藤竜也)、1978年、『最も危険な遊戯』(監督村川透、主演松田優作)の助監督 (映画)|チーフ助監督を務める。1981年、テレビ映画『プロハンター』(主演草刈正雄、藤竜也)で監督デビュー。同作のプロデューサーであった日本テレビ放送網|日本テレビの山口剛、セントラルアーツの黒澤満のプロデュースのもと、「火曜サスペンス劇場」を2作撮り、満を持して1983年、『十階のモスキート』(主演内田裕也)でスクリーンに本格的にデビューする。同作はヴェネツィア国際映画祭にも出品され、1984年、毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞を受賞した。1993年、日本衛星放送(現WOWOW)のプロデューサー仙頭武則が立ち上げた「J・MOVIE・WARS」シリーズでのテレビ映画『月はどっちに出ている#ドラマ|J・MOVIE・ (BWARS 月はどっちに出ている』(主演石橋凌)にひきつづき、シネカノンの李鳳宇のプロデュースのもとに手がけた『月はどっちに出ている』(主演岸谷五朗)で報知映画賞、ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞、毎日映画コンクールほかの各賞、各部門賞受賞のほか、第17回日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞にノミネートされ、映画賞総なめの評価を得る。、文芸春秋社のマルコポーロ1993年9月号にて「一時流行ったんだな。左翼の日本人少女を口説くときは日帝三十六年史で落とせというのが(笑)」などとした発言に対し一部在日コリアンから「誤解を招く」と非難の声が上がる1996年には大韓民国|韓国の延世大学に留学、同国の映画人たちとの交流をはかる。1999年、映画『豚の報い』(主演小澤征悦)で第52回ロカルノ国際映画祭ロカルノ国際映画祭#金豹賞|金豹賞にノミネートされ、ドンキホーテ賞(国際シネクラブ賞)を受賞したAwards for Yoichi Saiによれば「ドンキホーテ賞 ''Don Quixote A! ward''」、日本映画監督協会 - 理事長の「プロフィール」には「国際シネクラブ賞」とあるので併記した。。また自作のWOWOW版『月はどっちに出ている』に「タクシー会社の課長」役で出演以来、俳優としての活動も頻繁になり、ついに同年、俳優として『御法度 (映画)|御法度』(監督大島渚)に近藤勇役で出演、翌2000年の第53回カンヌ国際映画祭の地を大島監督、ビートたけし、松田龍平とともに踏んだ。2005年、ビートたけし主演の映画『血と骨』(2004年)で第28回日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞。また同年、かつてTBSテレビの「男と女のミステリー」で手がけた大沢在昌原作の『探偵冴木涼介 十番街の殺人』(主演山崎努、1989年)以来、ひさびさに「大沢在昌#アルバイト探偵シリーズ|アルバイト探偵シリーズ」(『帰ってきたアルバイト探偵』)を原作に、WOWOWの「ドラマW」で『アルバイト探偵(アイ) 100万人の標的』(主演椎名桔平)を演出した。2006年、初の韓国資本の映画『壽 B (映画)|壽』(主演チ・ジニ)の撮影を開始し、2007年3月22日韓国国内で公開、同年ドイツの「ミュンヘン・アジアフィルムフェスト」で上映された。2008年1月25日にはドイツで早くもDVDが発売される予定であり、2008年夏、日本でも公開の予定である。近年は日本テレビ放送網の『午後は○○おもいッきりテレビ』やテレビ朝日の『ビートたけしのTVタックル』などにコメンテーターとして出演することも多く、辛口コメントで有名。『爆笑問題のススメ』(札幌テレビ)では国鉄から鉄の資材を盗んで売っていたと告白したが謝罪はなかった。2004年、日本映画監督協会第8代理事長に就任、2007年4月、宝塚造形芸術大学教授に就任。2007年秋、白土三平原作、宮藤官九郎脚本、松山ケンイチ主演による映画『カムイ外伝』の撮影を開始、2009年公開の予定である。



    フィルモグラフィ




    [ 助監督 ]


  • 1975年 ブラザー劇場『刑事くん』(第3部、テレビ映画、東映・東京放送|TBS)

  • 1975年 『新宿警察 (テレビドラマ)|新宿警察』(テレビ映画、東映・フジテレビジョン|フジテレビ)

  • 1975年 『告発 在日韓国人政治犯レポート』 監督岡本愛彦(統一社プロ)

  • 1976年 『愛のコリーダ』 監督大島渚(大島渚プロダクション、アルゴス・フィルム)

  • 1977年 『北村透谷 わが冬の歌』 監督山口清一郎(三映社、ATG)

  • 1978年 『皮ジャン反抗族』 監督長谷部安春(東映セントラルフィルム、東映ビデオ|東映芸能ビデオ)

  • 1978年 『殺人遊戯』 監督村川透(東映セントラルフィルム)

  • 1978年 『最も危険な遊戯』 監督村川透(東映セントラルフィルム)

  • 1979年 『俺達に墓はない』 監督澤田幸弘(東映セントラルフィルム)

  • 1979年 『さらば映画の友よ インディアンサマー』 監督原田眞人(キティ・フィルム|キティ・フィルム・コーポレーション)

  • 1979年 『探偵物語』(テレビ映画、東映芸能ビデオ・日本テレビ放送網|日本テレビ)

  • 1980年 『戒厳令の夜』 監督山下耕作(白夜プロダクション)

  • 1980年 『不良少年』 監督後藤幸一(東映)


    [ 監督 ]

    ・1980年代

  • 1981年 『プロハンター』(テレビ映画、セントラルアーツ・日本テレビ)
    第15話 『狙われた罠』
    第16話 『悪い女』
    第25話 『ロング・グッドバイ』(最終回)

  • 1982年 火曜サスペンス劇場『孤独な狩人』(テレビ映画、セントラルアーツ・日本テレビ)

  • 1983年 火曜サスペンス劇場『恐怖』(テレビ映画、セントラルアーツ・日本テレビ)

  • 1983年 『十階のモスキート』(ニュー・センチュリー・プロデューサーズ)

  • 1983年 『性的犯罪』(日活|にっかつ)

  • 1983年 土曜ワイド劇場『松本清張の断線』(テレビ映画、東映・テレビ朝日)

  • 1984年 『いつか誰かが殺される』(東映、角川映画#角川春樹時代|角川春樹事務所)

  • 1985年 『友よ、静かに瞑れ』(角川春樹事務所)

  • 1985年 『特命刑事ザ・コップ』(テレビ映画、テレキャスト・朝日放送)
    第5話 『死刑の街に罠をはれ!』
    第6話 『ため死い旅をとめろ!』「特命刑事ザ・コップ」放送リストを参照。 

  • 1986年 水曜ドラマスペシャル『亜樹子・哀しみ色の罠』(テレビ映画、テレパック・TBS)

  • 1986年 水曜ドラマスペシャル『恋物語』(テレビ映画、角川春樹事務所・TBS)

  • 1987年 『黒いドレスの女』(角川春樹事務所)

  • 1987年 火曜サスペンス劇場『あなたに似た人』(テレビ映画、ヴァンフィル・日本テレビ)

  • 1988年 『花のあすか組!』(角川春樹事務所)

  • 1988年 乱歩賞作家サスペンス『罠の中の七面鳥』(テレビ映画、東映・関西テレビ放送|関西テレビ)

  • 1989年 『Aサインデイズ』(大映 (映画)|大映)

  • 1989年 男と女のミステリー『探偵冴木涼介 十番街の殺人』(テレビ映画、TBS);1990年代

  • 1990年 水曜グランドロマン『最後の結婚詐欺』(テレビ映画、ギャラクシー・ワン・日本テレビ)

  • 1991年 水曜グランドロマン『他人にいえない職業の男』(テレビ映画、ギャラクシーワン・日本テレビ)

  • 1991年 『襲撃 BURNING DOG』(東映ビデオ)

  • 1993年 『月はどっちに出ている#ドラマ|J・MOVIE・WARS 月はどっちに出ている』(日本衛星放送、ヒルヴィラ、東映)

  • 1993年 『月はどっちに出ている』(シネカノン)

  • 1995年 『平成無責任一家 東京デラックス』(アミューズ、シネカノン、テレビ東京)

  • 1995年 『マークスの山』(松竹、アミューズ、丸紅)

  • 1998年 『犬、走る。DOG RACE』(東映ビデオ)

  • 1999年 『豚の報い』(サンセントシネマワークス);2000年代

  • 2002年 『刑務所の中』(ビーワイルド、衛星劇場)

  • 2004年 『盲導犬クイールの一生|クイール』(松竹、テレビ東京、テレビ大阪、衛星劇場ほか)

  • 2004年 『血と骨』(「血と骨」製作委員会)

  • 2005年 ドラマW『アルバイト探偵(アイ) 100万人の標的』(テレビ映画、ビーワイルド・WOWOW)

  • 2007年 『壽 (映画)|壽』(原題『?』、製作TrizCLUB) ※初の韓国映画

  • 2009年 『カムイ外伝』(配給:松竹、製作プロダクション:ビーワイルド映画「カムイ外伝」公式サイトを参照した。2007年11月21日閲覧。



    ビブリオグラフィ


  • 『月はどっちに出ている - 崔洋一の世界』(鄭義信らと共著、日本テレビ放送網|日本テレビ出版部、1993年 ISBN 4820394169)

  • 『東京デラックス - 平成無責任一家』(鄭義信と共著、扶桑社、1994年 ISBN 459401609X)

  • 『映画「血と骨」の世界』(梁石日、鄭義信と共著、新幹社、2004年 ISBN 4884000420)



    関連項目


  • 日本の映画監督一覧

  • BATTLE TALK RADIO アクセス(TBSラジオ。2003年9月ごろまでコメンテーターとして出演、不定期)

  • 若松孝二

  • 山口剛 (プロデューサー)

  • 岡田裕(ニュー・センチュリー・プロデューサーズ)

  • アナーキー (バンド)

  • 角川春樹

  • 榎望









    外部リンク




  • 日本映画監督協会 - 同協会の公式サイト

  • テレビドラマデータベース

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    2008年02月11日

    映画監督[田中絹代]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    田中絹代



    ・山口県
    | 国籍 = 日本
    | 民族 =
    | 血液型 =
    | 生年 = 1909
    | 生月 = 12
    | 生日 = 29
    | 没年 = 1977
    | 没月 = 3
    | 没日 = 21
    | 職業 = 俳優、映画監督
    | ジャンル = 映画
    | 活動期間 = 1924年-1977年
    | 活動内容 =
    | 配偶者 =
    | 家族 =
    | 公式サイト = http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kinuyo21/top.htm
    | 主な作品 = 愛染かつら、西鶴一代女
    | アカデミー賞 =
    | アリエル賞 =
    | AFI賞 =
    | 英国アカデミー賞 =
    | エミー賞 =
    | グラミー賞 =
    | ゴールデングローブ賞 =
    | ゴールデンラズベリー賞 =
    | ゴヤ賞 =
    | ジェミニ賞 =
    | ジニー賞 =
    | セザール賞 =
    | トニー賞 =
    | 日本アカデミー賞 =
    | フィルムフェア賞 =
    | ブルーリボン賞 =
    | ローレンス・オリヴィエ賞 =
    | その他の賞 =ベルリン国際映画祭最優秀主演女優賞
    1974年『サンダカン八番娼館 望郷』
    | 備考 =
    }}田中 絹代(たなか きぬよ、1909年12月29日 - 1977年3月21日)は、大正・昭和期の日本の俳優|女優・映画監督。黎明期の日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。また日本で二人目の女性映画監督でもある。



    出生・下関から大阪へ

    山口県下関市丸山町に父・田中久米吉、母・ヤスの四男四女の末娘として生まれる。母ヤスの実家小林家は下関で代々続く大地主の商家で、久米吉はそこの大番頭であった。二人は結婚して独立し、呉服商などを営む傍ら20軒ほども貸し家を持つ裕福な家であったが、絹代が3歳になって間もない1912年(明治45)1月、久米吉が病死。その後母は藤表(とうおもて)製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していった。1916年(大正5)絹代は下関市立王江尋常小学校に入学するが、経済的困窮のため充分な通学ができない状況だったという。この年20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪したことで田中一家は後ろ指を指されることになり、そのことが一家の経済事情を更に悪くした。翌1917年、一家の生活はついに行き詰まり、母ヤスの実兄を頼って大阪天王寺に移る。更に翌1918年4月、絹代は天王寺尋常小学校の三年に編入し、以後大阪で育つことになる。



    戦前・戦中〜アイドルスターとしての成功

    幼少時より、琵琶を習い、1919年に、大阪楽天地 (大阪)|楽天地の少女歌劇|琵琶少女歌劇の舞台に立つ。兄が松竹大阪支社で給仕として働いていた関係で、1924年に松竹下加茂撮影所に入所し、野村芳亭監督の『元禄女』でデビューする。まもなく、当時新進監督だった清水宏 (映画監督)|清水宏に『村の牧場』の主役に抜擢される。松竹蒲田撮影所に移った後の1927年、五所平之助監督の『恥しい夢』が好評を博する。その後、当時の人気スター鈴木傳明とのコンビで売り出し、松竹のドル箱スターとなり、会社の幹部に昇進する。また、五所監督による日本初のトーキー|トーキー映画、『マダムと女房』に主演し、トーキー時代になっても、スターとして迎えられる。特に、上原謙とのコンビで1938年に公開された『愛染かつら』は空前の大ヒットとなり、シリーズ化された。1940年には、溝口健二監督の『浪花女』に出演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自信を深める。



    戦後〜演技派スター・女性監督へ

    終戦後も、溝口監督の『女優須磨子の恋』や小津安二郎監督の『風の中の牝鶏』などに出演し、高い評価を得、1947年、1948年と連続して毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞する。順調に見えた女優生活だったが、1950年、日米親善使節として滞在していたアメリカ合衆国|アメリカから帰国した際、サングラスに派手な服装で投げキッスを行い、激しい世論の反発を受けてしまう。それ以降、スランプに陥り、松竹も退社する。この時期、メディアからは「老醜」とまで酷評されて打撃を受けている。1952年に溝口監督が彼女のために温めてきた企画である『西鶴一代女』に主演する。この作品はヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞し、彼女も完全復活を果たす。翌1953年には同じコンビで『雨月物語』を製作、ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞する。また、同年『恋文』を監督日本で二人目の女性監督であり、生涯に6本の作品を手がけた。。しかし、このことが溝口監督との仲を疎遠なものにしたといわれる。その後も、木下恵介監督の『楢山節考』、小津監督の『彼岸花』への出演、京マチ子主演の『流転の\xA1 2&H^!Y$N1i=P$J$I!">o$K1G2h3&$r%j!<%I$9$k3hLv$rB3$1$k0lJ}!"1970年の『樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅ノ木は残った』に出演以降、テレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役やNHK朝の連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。1974年に主演した熊井啓監督の映画『サンダカン八番娼館 望郷』の円熟した演技は世界的に高く評価され、ベルリン国際映画祭主演女優賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1977年3月21日、脳腫瘍のため死去。。最晩年、病床についた彼女は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た者に尋ねたという。

    死後、勲三等瑞宝章が授与された。同年3月31日、映画放送人葬が行われ、5000人が参列した。戒名は迦陵院釈尼絹芳大姉。墓所は神奈川県鎌倉市の円覚寺にある。



    没後の顕彰

    1985年には、従弟の小林正樹監督により、毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。第1回受賞者は吉永小百合。「恋多き女性」としても有名で、清水宏監督との同棲生活と破局、慶応義塾大学|慶応野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。その波乱に富んだ一生は、1987年に市川崑監督、吉永小百合主演で『映画女優』というタイトルで映画化された。



    代表作



    [おもな出演映画作品]


  • 元禄女(1924年、野村方亭、吉野二郎)

  • 村の牧場(1924年、清水宏)

  • 恥しい夢(1927年、五所平之助)

  • 大学は出たけれど(1929年、小津安二郎)

  • 伊豆の踊子(1933年、五所平之助)

  • 愛染かつら・前後編(1938年、野村浩将)

  • 暁に祈る(1940年、佐々木康)

  • 簪 (映画)|簪(1941年、清水宏)

  • 陸軍 (映画)|陸軍(1944年、木下恵介)

  • 結婚(1947年、木下恵介)

  • 女優須磨子の恋(1947年、溝口健二)

  • 不死鳥(1947年、木下恵介)

  • 夜の女たち(1948年、溝口健二)

  • 風の中の牝鶏(1948年、小津安二郎)

  • 銀座化粧(1951年、成瀬巳喜男)

  • 西鶴一代女(ヴェネチア国際映画祭国際賞受賞作品。1952年、溝口健二)

  • おかあさん(1952年、成瀬巳喜男)

  • 雨月物語(ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞、イタリア批評家賞受賞作品。第28回アカデミー賞衣裳デザイン賞白黒映画部門ノミネート作品。1953年、溝口健二)

  • 煙突の見える場所(ベルリン国際映画祭国際平和賞受賞作品。1953年、五所平之助)

  • 山椒大夫(ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作品。1954年、溝口健二)

  • 噂の女(1954年、溝口健二)

  • 黄色いからす(第15回ゴールデングローブ賞 外国語映画賞受賞作品。1957年、川頭義郎)

  • 異母兄弟(1957年、家城巳代治)

  • 楢山節考(1958年、木下恵介)

  • 彼岸花 EQUINOX FLOWER (1958年、小津安二郎)

  • この天の虹(1958年、木下恵介)

  • おとうと(カンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会表彰受賞作品。1960年、市川崑)

  • 赤ひげ(ヴェネチア国際映画祭男優賞(三船敏郎)、サン・ジョルジョ賞、ヴェネチア市賞、国際カトリック映画事務局賞受賞作品。1965年、黒澤明)

  • 三婆(1974年、中村登)

  • サンダカン八番娼館 望郷(ベルリン国際映画祭最優秀主演女優賞受賞作品。1974年、熊井啓)

  • 北の岬(1976年、熊井啓)

  • 大地の子守唄(1976年、増村保造)


    [出演テレビドラマ]


  • 樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅ノ木は残った(1970年)

  • 明日のしあわせ(1970年)

  • 女人平家(1971年)

  • たった一人の反乱(1973年)

  • りんりんと(1974年)

  • 前略おふくろ様(1975年):主人公の母親役

  • 幻の町(1976年)

  • 雲のじゅうたん(ナレーション)(1976年、NHK朝の連続テレビ小説)


    [監督映画作品]


  • 恋文(1953年)

  • 月は昇りぬ(1955年)

  • 乳房よ永遠なれ(1955年)

  • 流転の王妃(1960年)

  • 女ばかりの夜(1961年)

  • お吟さま(1962年)



    田中絹代を演じた女優


  • 乙羽信子?秋吉久美子・高橋かおり(1984年・テレビドラマ『花も嵐も踏み越えて 女優田中絹代の生涯』)

  • 吉永小百合(1987年・映画『映画女優 (1987年映画)|映画女優』)



    参考図書


  • 『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』古川薫著、文藝春秋刊

  • 『小説 田中絹代』新藤兼人著、文藝春秋刊



    関連項目


  • 田中絹代賞(毎日映画コンクール)…毎日新聞社・スポーツニッポン新聞社主催。出生地の下関市長が副賞を贈る。

  • 田中絹代メモリアル協会…出生地で墓がある下関市の遺品管理団体。映画祭や田中絹代賞への協力、遺品の展示、市民による墓参「花嵐忌(からんき)」などを催す。

  • 田中絹代メモリアル懇談会



    外部リンク


  • 田中絹代の部屋(田中絹代メモリアル協会)

  • キネマ旬報データベース「田中絹代

  • 日本映画データベース「田中絹代

    Quotation:Wikipedia - Article - History  License:GFDL
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    2008年02月10日

    映画監督[北野武]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    北野武



    | 出身地 = 東京都足立区
    | 出身校 = 明治大学工学部
    | 学位 = 工学士
    | 生年月日 =
    | 活動時期 =
    | 受賞歴 = ・1997年 ヴェネチア国際映画祭 金獅子賞
    ・1999年 レジオンドヌール勲章 シュヴァリエ章
    ・2003年 ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞
    ・2006年 ガリレオ2000賞 文化特別賞
    ・2007年 ヴェネチア国際映画祭 監督・ばんざい!賞
    | 公式サイト = OFFICE-KITANO WEB SITE
    }}
    ビートたけし(本名:北野武(きたの たけし)、1947年1月18日 - )は、東京都足立区島根 (足立区)|島根出身のテレビ司会者、お笑いタレント、映画監督、俳優、東京芸術大学大学院映像研究科教授(監督領域)、元漫才師(ビートキヨシとともに、ツービートとして活動)。



    人物

    情報番組の司会を数多くこなす他、ピアノ、タップダンスも行う。また、立川談志の門下生でもあり、「立川錦之助」という高座名も持つ。血液型はO型。オフィス北野に所属し、この事務所の中心人物でもある。タモリ・明石家さんまとともに、「ビッグ3 (日本のお笑いタレント)|日本のお笑いタレントBIG3」の一人にあげられ、また、映画監督としては世界的にも評価が高い。愛称は「たけちゃん」・「殿」・「たけし」(所ジョージなどからは「おじさん」と呼ばれている)。映画監督関係では「北野武」、それ以外では「ビートたけし」を名乗ることが多い。『たけしのコマネチ大学数学科』と『熱血!平成教育学院』では、マス北野として登場している。明治大学中退だが、2004年に同大学特別卒業認定者となった(#大学時代|後述)。



    来歴




    [ 幼少時代 ]

    足立区|東京都足立区島根 (足立区)|島根町にて、ペンキ職人の父・北野菊次郎と、母・北野さきの四男(次男が夭折し、実質は三男として育つ)として誕生。「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」という願いから、「武(たけし)」と名付けられた。色白で細面、身体は小さいが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、北野うし|祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成はビートたけし#家族・縁戚|「家族・縁戚」を参照)。足立区立梅島第一小学校に入学。この頃から野球に熱中するようになるが、教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績優秀だった。特に算数と図画工作が得意だった。鼻筋通った中々の美童だったため、近所のおばちゃん連中に「アメリカさん」と呼ばれ大変もてはやされた。小学校卒業後は母親が進学校を希望したため、近隣の十中を差し置いて、遠く離れた足立区立第四中学校に越境入学させられる。中学では野球部に入部。のちに東京オリオンズに入団する成田文男も同時期所属していた。かつての美童も骨格逞しいニキビ面の青年に変貌。一気にもてなくなった反\xA1 F0$G%K%R%j%:%`$X$HAv$C$?!#B46H8e!"El5~ETN)B-N)9bEy3X9;$KF~3X!#9b9;;~Be$OFp<0Ln5e|軟式野球部に入部。それとは別に、短期間ヨネクラジムにボクシングを習いに通っていた。


    [ 大学時代 ]

    1965年|1965年(昭和40年) 高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学|機械工学科に現役入学。しかし大学2年の時、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈でぶらぶらと日を送るようになる。学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズや新風俗に傾倒する。“LeftyCandy”やジャズ喫茶|新宿ACB(アシベ)、名曲喫茶|風月堂などに入り浸った。たまに来る依頼でジャズ喫茶のボーイもしていたが、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶『ビザール』では、若松孝二、小水一男らと知り合う。『ヴィレッジ・ヴァンガード』で、早番のボーイとして働いていた時は、永山則夫連続射殺事件|連続射殺事件で逃走中だった永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。『ジャズ・ビレッジ』の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」を気に入っており、後年これに続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えた詞を作り、これに泉谷しげるが曲を付け、『死んだ犬』として発表した。この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下\xA1 =I$K5o8u$7%"%k%P%$%H;0Kf$N@D=U;~Be$r2a$4$7$?!#2[;R$N7W$jGd$j$d北野武氏へ明治大学特別卒業認定証ならびに特別功労賞を贈呈。


    [ 前座時代 ]

    学生運動は収束に向かい新宿からはフーテンが閉め出されるようになる。自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能分野に興味はあったものの、かつて友人達が没頭していたアンダーグラウンド (文化)|アングラ演劇などには馴染むことができず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう『驚きももの木20世紀 - 伝説の浅草芸人・深見千三郎と最後の弟子』朝日放送、1996年」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。1972年|1972年(昭和47年)の夏、東京都台東区浅草にあったストリップ劇場・フランス座|浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターガール|エレベーターボーイを始める。地味な風貌だったため、当初は笑芸人に向かないと評されたという。当時、たけしと思しき人物を見かけた井上ひさしも「不機嫌そうな青年ビートたけし『浅草キッド』新潮社〈新潮文庫〉、1992年(文庫版解説)」と、その印象を述べている。 やがて、同劇場の経営者兼座長「浅草の首領」こと拭 <8+@i;0O:$K;U;v$7!"A0:B7]?M!&KL@iB@!JKLLn@+$H;U>"$NL>A0$+$i!#>0L>A0$OIQHK$KJQ$o$C$?!K$H$7$F%3%s%H!J7Z1i7`!K$r3X$V!#Kk4V%3%s%H$K=P1i$7$FOS$rKa$-!"7]?M$H$7$F%?%C%W%@%s%9$N=$6H$K$bNe$`!#:B0w$NB?$/$,?<8+$r6aIU$-Fq$$B8:_$H$7$F8+$F$$$?$,!"$?$1$7$OJ*I]$8$7$J$+$C$?$?$a?<8+$+$i5$$KF~$i$l$?!#IqBf$G$OB(6=|アドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれるようになった。フランス座時代は長いものではなかったが、師匠の深見をはじめ重要人物が多い。座付き作家見習いをしていた井上こんさい(井上雅義)はフリー記者に転身し、後にビートたけしの漫談エッセイにおける取材・構成を担う。また、見習いコメディアンとして入座したハーキーと呼ばれる人物は、ツービート初期のネタに多大な影響を及ぼしたとされる。一時期コンビを組むほど深い関わりがあったが心身を病み頓挫。病気の性格上その自殺#自殺未遂|詳細は多く語られる事がなく、楽曲「浅草キッド」の歌詞に面影をとどめるのみとなっている。


    [ ツービート結成 ]

    当時フランス座には、兼子二郎という2年先輩の芸人が出入りしていた。深見千三郎がロック座|浅草ロック座から移籍してきた際、一緒に移ってきた男で、コントのほか漫才にも手を拡げていた人物だった。兼子は漫才の相方がトラブルで抜けたため代役を捜しており、一緒にコントを演じた経験があるたけしに白羽の矢を立てた。たけしも外世界への誘惑に勝てずフランス座を出る決心をする所属していた期間は2年に満たず早い巣立ちだった。深見千三郎と親交が深かった佐山淳によると、当時フランス座は経営難でコント役者に支払う給料さえ事欠いていた。そんな状況にも関わらず、弟子の前では散財して見せる深見の性格にたけしは憚りを感じるようになったため、負担軽減を図って劇場から離れる決意をしたのではないかと推測している佐山淳『女は天使である』 スパイク、1997年。劇場を離れたことは結果的に師匠・深見の失望と怒りを買うことになった。東京の漫才師として演芸場に出るためには漫才協会|漫才協団に所属している必要があったため、松鶴家千とせの紹介で松鶴家千代若・千代菊に入門。松鶴家二\xA1 O:!&N$7$?!#Ev=i$O@5E}GI$N3]$19g$$L!:M$GA4$/2j$,=P$:!"%U%i%s%9:B$K$$$?:"$h$j$bIO5g$7$?!#7s;R$,0l;~%3%m%`%S%"!&%i%$%H$NIU$-?M$r$7$F@83h$rN?$$$G$$$?$?$a!"$=$N1o$G6u$?$+$7!&$-$h$7!J%3%m%`%S%"!&%H%C%W!&%i%$%H$N0lLg$O3'!V@D6u!W$N2H9f$rL>>h$k$,!"JRJ}$NDo;R$J$N$G!V6u!W$@$1$H$J$C$?!#!K$HL>>h$j1D6H$K=P$?$3$H$b$"$C$?!#1i7]>l$N%.%c%i$O0B$$$?$a!"COJ}%-%c%P%l!< (風俗)|キャバレーなども回るようになるが、たけしは漫才を聞こうとしない酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり酩酊して舞台に上がることが多かった。しかも店をこき下ろすネタを掛けたり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、しょちゅう舞台から降ろされていた。そのため兼子は場繋ぎに使う奇術ネタをいつもポケットに忍ばせておかなければならなかったという。そしてこの頃から一種の開き直りをみせ、暴走ネタ・危険ネタに走るようになってゆく。紆余曲折ののち、2人はコンビ名を変えて最初から出直す事に決めた。新しい名前の候補を考えるうちに、たけしが学生時代ジャズ喫茶でアルバイトしていた話が出た。それに絡んだコンビ名「ツービート(ビ  <%H (ドラム・ビート)#2ビート|two beat)」が繊 *$P$l$k! #!VL!:M;U$i$7$/$J$/$F$$$$!W$H$$$&$N$,7hDjM}M3$@$C$?!#$3$&$7$F7s;R$O!V%S!<%H%-%h%7|ビートきよし」、たけしは「ビートたけし」となる。そんな折に大阪で新進漫才師として頭角を現して来たB&B (漫才)|B&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。
    服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー|アイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは代演などで浅草松竹演芸場|松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのネタもさることながら、ボーイズ (演芸)|ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。浅草ではコント55号以来の珍事だったため、いずれ世に出ると噂されるようになった。


    [ 黎明期 ]

    演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受けた「もう一度浅草でやれっていうやつがいるけどさ、冗談じゃないっていうの。オレが浅草にいたとき、テメエらオレになにしてくれたってんだよ。ツービートをいちばんお客のいないところに出したりしたじゃないかってさ。オレがさ、自分で絶好調だと思った時代がいっぱいあるわけ。他の芸人連中もおもしろいっていってくれて、お客もいちばんおもしろいっていってくれたときに、オレは客のいねえところばっか出されたんだからさ。」ビートたけし「午前3時25分!」『平凡パンチ』平凡出版株式会社、1983年。漫才協団から脱退を求める声すら起きたという。1976年|1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人演芸大賞|NHK新人漫才コンクールに出場、客の反応は抜群に良かったものの、審査員は序列を考慮した選定で昭和のいる・こいるに賞を与えた。以降ツービートは3年連続で出場したが、ついに最優秀賞を獲得することはなかった。場内の爆笑をさらったにも関わらず評価されなかった理不尽ぁ O%H%i%&%^$H$J$j!"8e!9$^$G0d:($r;D$9$3$H$H$J$C$?!#0lJ}!"$N$A$K%i%$%P%k$HL\$5$l$k@1%;%s%H!&%k%$%9|セント・ルイスは1977年|1977年(昭和52年)のコンクールで最優秀賞に輝き、一足先にその名を知られるようになった。1978年|1978年(昭和53年)、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する漫才ライブを開催。「マラソン漫才・ギャグデスマッチ」と題されたこのイベントには各界著名人や雑誌編集者などが訪れ話題を呼んだ。たけしはこのライブでおよそ2時間近く毒舌漫才を繰り広げ観客の喝采を浴びた。後日、短波放送の番組でこのライブ録音をオンエアする予定があったが、あまりにも凄まじい内容のため放送が見送られてしまうという逸話を残している。企画したのは高信太郎という演芸マニアの漫画家で、漫才コンクールでの奮闘にいちはやく注目しその売り出しに参与するようになった。高はその活動範囲から文化人と多く交友があり、たけしもその繋がりで高平哲郎、赤塚不二夫、タモリら異種の笑いを形成するグループと一時期交わっていたが(このころ「タモリのオールナイトニッポン」の中でァ D!<%S!<%H$NL!:M$,>R2p$5$l$?;v$b$"$C$?!K!"?7=I%4!<%k%G%s39E*$J!! VP$$!W$,H)$K9g$o$:$8$-$KN%$l$F$$$k!#$?$@$7!"@V@%@n86J?$r2p$7$FCN$j9g$C$?!G7$H$OD9$-$KEO$k1o$H$J$C$?!#1979年|1979年(昭和54年)、「大正テレビ寄席」で司会・牧伸二のアシスタントをしていた女流漫才師「ミキ&ミチ」の北野幹子|内海ミキと結婚。千葉県犬吠埼にてささやかな新婚旅行を済ませたのち、亀有のアパートで生活を始める。高信太郎がツービートの所属事務所・太田プロから疎まれるようになると、代わって塚田茂の弟子で芸人肌の放送作家・高田文夫と親密になってゆく。高田は番組出演者のポール牧や青空球児・好児の口から度々話題に上がっていた浅草の芸人・ツービートのたけしに興味を抱いており、対面が実現した際は同じ東京育ちで年齢も近かったことから意気投合した。以来、ブレーントラスト|ブレーン兼親友のような関係となる。のちに高田はたけしから「日本一の客」と敬意を表される程の存在となった。当時、高田が三波伸介のお気に入り作家だった縁で「三波伸介の凸凹大学校」へのレギュラー出演も決定。11月「花王名人劇場」において、人\xA1 5$Mn8l2H!&7n$N2HT$6@|月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵 (8代目)|橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。才気絶倫だが古典派からは「邪道」と言われていた円鏡と、目下売り出し中の「邪道漫才師」ツービートを競演させる試み。番組制作者が苦慮したのはツービートの毒がゴールデンタイムの視聴者に受け入れられるかという点で、緩和案としてネタの継ぎ目にお年寄りを気遣う台詞を挟みこむという苦肉の策が取られた。「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、翌年の「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、のちの漫才ブームへと繋がった。


    [ 漫才ブーム ]

    1980年|1980年(昭和55年)『漫才ブーム|マンザイブーム』(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)のムーブメントが起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に一躍茶の間でも知られる存在となる。ブームで知られるようになった漫才師の中では、B&B (漫才)|B&B、ザ・ぼんち等に続くに人気位置であったが、毒舌が故に全ての客層ではなく、新しいものを求める男性層から支持を集める傾向を見せた。中でもブームを象徴する番組となったのが、4月から放送されたフジテレビ『THE MANZAI』である。これは『東西対抗漫才大会』という捨て企画を下敷きに制作された改編期|期首特別番組|特番で、制作の横澤彪と佐藤義和は時代遅れの存在だった『漫才』を徹底的に若者向けに作り替えてしまう。このとき新進気鋭の上方漫才師に対抗する東の代表として選ばれたのが『星セント・ルイス|セント・ルイス』『B&B (漫才)|B&B』『ツービート』の3組であった。しかし一番人気のB&Bは昨年まで関西を拠点としていたコンビで、視聴者に関東の漫才師として認識されることは殆どな\xA1 $/!"%;%s%H!&%k%$%9$b5RAX$H$N%.%c%C%W$KG:$s$@$"$2$/4~8"|リタイアしてしまうため、番組の人気が上がるにつれて「上方漫才勢 VS ツービート」のような印象を与えた。速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのはおじいさん|ジジイ・おばあさん|ババア・不細工|ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。また、神奈川金属バット両親殺害事件|金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいちはやくギャグに取り入れ、「冒頭から人が死にまくる漫才」として知られた。これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と総称され批判を受けることもあったが、それに対してたけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。有名なものとしては「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ァ V%9$,CT4A$rBT$C$F$$$k!W!V?2$kA0$K$-$A$s$H9J$a$h$&?F$N ;6月『ツービートのわッ毒ガスだ』
    :ブームの只中に発売されたネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』は、年末までに約85万部を売り上げて最初のヒット著作となった。本の出版元であるKKベストセラーズはビルを新築し「毒ガスビル」などと呼ばれた。当初、太田プロダクション|太田プロはせいぜい3万部程度の売り上げと見込んでおり、印税全額を二人が受け取る契約を結んでいたため大金が転がり込んできた。たけしはその印税でポルシェを購入、三宅一生の服を着て舞台に現れるようになり、報知新聞に「アイツに俺の服、着ないように頼んでくれ!」という記事が載った(三宅自身は後の雑誌インタビューで”発言”を否定している)。本のカバーには阿刀田高の推薦文が書かれているが、たけし自身は「阿刀田さんのは面白くない。買ってません」と公言していた。10月には続編『ツービートの遺言・もはやこれまで』が発売され、年内で33万部を突破した。;7月『コマネチ!』
    :このころツービートは、TBSの『スター爆笑座』という番組にアシスタントとして出演しており、司会のせんだみつおと仲が良かった。楽屋での雑談中に、たけしは「ナディア・コマネチ|コマネチ!」対となる「ニコライ・アンドリアノフ|アンドリアノフ!」を生みだしているせんだみつお『ナハ』東京書籍、 2002年。ISBN 4487797144。このオリンピック体操選手名の語感(股間)を表現するアクションは、ビートたけしの金字塔的ギャグとして非常によく知られるようになった(ほかに「:en:Nellie Kim|ネリーキム」および「アレクサンドル・ディチャーチン|ディチャーチン」などが存在したが、こちらは浸透するには至っていない)。さらにその後、せんだが「コマネチ」を拝借し、たけしが『タケちゃんマン』の中で「ナハナハ」を借用するという一種の貸借関係が生まれた山藤「一時期コマネチやってたでしょ」せんだ「えェ」山藤「あれは、オリジナルはたけしでしょう」せんだ「そうです。ある日たけしに『面白いな。それ、俺にも貸してくれよ』って。」山藤「貸してくれってのが凄いね(笑)」\xA1 $;$s$@!V!X%*%l$O$M!"%.%c%0P!K$I$3$+$NIqBf$G!D$"%C!"$"$l$O3(2h4[A0$@!"?@5\$N$M!#@8J|Aw$G!X%3%^%M%A!"%3%^%M%A!"%3%)%^%M%A%#!P!K!W;3F#>OFs!XBPCL!V>P$$!W$N:.FY!Y9VCL。ちなみに後年ヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてナディア・コマネチ本人から祝福の手紙が贈られている。;10月『笑ってる場合ですよ!』
    :フジテレビは『THE MANZAI』の成功に乗り、漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』の放送を開始する。ツービートは火曜日のレギュラーとなり、漫才のネタであった架空のコンテスト『勝ち抜きブス合戦』を現実化させた。ブームの終焉と共にこの番組も終わりを告げたが(1982年10月)、最終回でたけしはスタジオアルタの客に向かい「何でもゲラゲラ笑いやがって!本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と毒ずいた。プロデューサーの横澤彪は後番組の司会をたけしに依頼したが「俺は躁鬱気味だから、毎日の昼番組の司会なんかできません」と断られた。代わって横澤班としては初の起用となるタモリが司会に抜擢され『森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも』が生まれることになった。1981年|1981年(昭和56年)の元旦から始まったオールナイトニッポンでの単独DJも好評で、同様のファン層に支持された。1982年|1982年(昭和57年)の夏頃にはブームは完全に鎮火。漫才ブームから成功の兆しを感じ、“タレントビートたけし”として漫才以外でも世間に叩 N$i$l$k$h$&$K$J$k!#0J9_!"C1FH$G;J2q$r$9$kHVAH$rB?$/;}$D$h$&$K$J$C$?!#$N$A$KL!:M%V!<%`$N;E3]?M!&_7EDN4<#$O%V!<%`$r?6$jJV$j!VL!:M$G0lHV2T$$$@$N$OC/$@$+$h$/H=$i$J$$$,!"$3$N%V!<%`$K$O$:$_$r$D$1!"%H!<%?%k$G0lHV2T$$$@$N$,%D!<%S!<%H$G$"$k$3$H$O4V0c$$$J$$!W$H=R$Y$?!#


    [ オールナイトニッポン ]

    ニッポン放送系の深夜放送ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」でビートたけしの評価は一気に高まる。本人が当時を述懐するに『とにかく一人で喋ると間が空く事がものすごく恐かった』と言う通り、トークの速度はものすごく密度が濃い。当時のファンの中心層であった大学生は必ずテープに録音してから何度も聞き直さないと全内容が捕捉出来なかった程であった。ただ横で笑っているだけのように見られていた放送作家の高田文夫は、実はたけしのハイテンションを絶妙な間合いの合いの手で支えていた。当時は同じ事務所の(たけしが紹介した)片岡鶴太郎も共に参加していた。この番組から出た本は今で言う“語り起こし”で構成は主に高田によるものであった。また、ハガキ職人と呼ばれた熱心な投稿者の存在も大きく、このスタイルは後の「とんねるずのオールナイトニッポン」「ナインティナインのオールナイトニッポン」「伊集院光 深夜の馬鹿力」等、お笑い系パーソナリティの放送構成モデルとなった。次第に東国原英夫|そのまんま東をはじめとした弟子志願者が現れはじめ、日本一周をラジオで中継させたりする『弟子やめさせコーナー』\xA1 $b$"$j!"DaB@O:$H8rBe$9$k$h$&$K$?$1$773CD$bJ|Aw$K2C$o$kMM$K$J$C$?!#J|Aw$N9=@.$O=5$N=PMh;v$r$*$b$7$m$*$+$7$/OC$9FbMF$,BgH>$@$,!";~$K;0EgM35*IW$K79E]$9$k$d!"2時間三島を語る等の“講義モード”になったときもあった。また、中国で日本人修学旅行生が鉄道の大事故で亡くなる等の社会的な問題が起こった際には放送をボイコットしたり、風邪による体調不良で休んだこともあった(このときは急遽軍団が番組を引き受けていた)。ほかにも、たけしが放送中ずっとファミコンの「ポートピア連続殺人事件」をプレイしていたこともあった。この時も基本的に軍団が放送していたが、たけしは時折ゲームについて話し、その会話の中で偶然犯人を名指ししてしまった。


    [ オレたちひょうきん族 ]

    1981年|1981年(昭和56年)5月、雨傘番組として始まったフジテレビジョン|フジテレビ『オレたちひょうきん族』は、当時のお化け番組『8時だョ!全員集合』を放送終了に追い込み、80年代のバラエティ番組における金字塔となった。当時、たけしはこの番組を「(当時の笑いにおける)メートル原器のようなもの。お笑い芸人としてはこれをやっておかないと、とりあえずまずい」と評している。一連の漫才ブームで大成功を収めていたフジテレビのプロデューサー・横澤彪は、ブームによって新たな地位を確立したコメディアン達を飾るような、楽しく新しい呼び名を模索していた。「エンターテイナー」ではおこがましく「演芸|演芸人」では古臭い。そのうち誰かの口から発せられた単語「剽軽(ひょうきん)者」という古臭い言葉の耳障りが気に入り、これを彼らにふさわしい総称と定義し新番組のタイトルに付けた。こうして生まれたのが『我らひょうきん族』(編成部から「我ら」が頭に付く番組は当らないと言われ)転じて、『オレたちひょうきん族』である。ちなみにたけしは、このタイトルを最も具現している存在として\xA1 L@@P2H$5$s$^$NL>$r5s$2$?!#2#_7$OHVAH$N@):n$K$"$?$C$F!"!XA40w=89g!Y$N:n$j9~$^$l$?>P$$$N5U$r9T$/IT40A4$J>P$$!"%3%s%H$N@_Dj$9$i:n$jJ*$H$7$F>P$$Ht$P$9!X0NBg$J$k3X7]2q!Y$rI8\V$7$?!#$3$N$3$H$O=P1i

    [ バラエティの黄金期]

    1982-1984あたりからテレビ東京|TX気分はパラダイス等に出演している最中たけし軍団という弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)の人数が集まって来た事から、集団で行うバラエティの展開を模索し日本テレビ放送網|NTV系スーパージョッキー、東京放送|TBS系笑ってポン、お笑いサドンデス等と相まって各種のスペシャル番組にも取り組むも、まだファン層は新しいものを求める男性の大学生や若年層社会人に限られたコアな認知度だった。また博識が評価されTBS世界まるごとHOWマッチ等で文化人的な出演要請も増えて来た。1985年から過去の経験や蓄積したアイディアからバラエティの黄金期を迎える。* NTV=スーパーJOCKEY

  • NTV=天才!たけしの元気が出るテレビ

  • ANB=ビートたけしのスポーツ大将

  • TBS=風雲!たけし城

  • NTV=OH!たけし

  • TBS=世界まるごとHOWマッチ(毎日放送|MBS制作)

  • CX=オレたちひょうきん族

  • LF=オールナイトニッポン当時のレギュラー番組全てであるが、このうちNTV テレビ朝日|ANB TBS フジテレビジョン|CX全ての20時台の最高視聴率をマークした。尚、たけし城、元気、スポーツ大将は全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。その他放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、“たけしの挑戦状”等のゲーム制作も行っており、フライデー襲撃事件が起こる迄の期間はバラエティ時代の黄金期と言える。


    [ バイク事故〜金獅子賞受賞以降 ]

    1997年|1997年(平成9年)、映画「HANA-BI」で、第54回・ヴェネツィア国際映画祭でグランプリに相当する金獅子賞を受賞する。本映画祭における日本作品のグランプリ受賞は39年ぶり。発表直後、たけしは「これでやっと、新人とか違う分野から出てきて映画撮ってもここまで行けるんだってのがわかったから、これから映画目指す奴にはいい刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めようぜ」と英語でスピーチ。翌朝のスポーツ紙には「たけし、ズッコケ授賞式」という見出しが踊った。ニュースとしてはダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ元王妃の葬儀と重なったことで2番目の扱い。帰国時の記者会見では現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して笑いをとった。自著「時効」の中で四十代中盤を迎えたあたりから頭の回転が鈍り言葉が出にくくなる、突っ込みが鈍くなるなどの年齢からくる衰えが出始めたが当時はまだまだタレントとして盛りで世間が俄然たけしの毒舌を期待していたためギャップで悩んだと述べている。そして同著の中ぁ G$O$b$&l$G=P$i$l$l$P$$$$$H$b=R$Y$F$$$k!#


    [ ビートたけし登場以後、TV業界へ与えた影響 ]

    マンザイブームは、それまでドリフターズや萩本欽一などお笑いスターを中心に据えて存立していたバラエティ番組を大きく変えるきっかけになった。「オレたちひょうきん族」で茶の間に認知されたビートたけしは、その「ひょうきん族」自体では明石家さんまへの突っ込み役に徹することが多かったが、「お笑いサドンデス」「笑ってポン」等でそれまでの平和型のコントやギャグよりも、むしろ過激で無謀な方向性のギャグを志向した。 そして1985年以降のバラエティ黄金期では一般視聴者(素人)を重要な役割で参加させる番組を提示する。それまでバラエティ番組は(欽ちゃんファミリーの「気仙沼ちゃん」などごく一部の例外を除いて)あくまで芸人主導のものとされていた常識を覆し、ビートたけしは素人とたけし軍団を対抗させる形で、素人も主役に据えているのが最大の特徴である。「風雲!たけし城」では、たけしと軍団が構える『たけし城』に様々なゲーム形式の障害を乗り越えて行くとぁ $$&!V96N,%I%i%^!W$rCf?4$K?x$($?HVAH9=@.$r<($7$?!#9M$(H4$+$l$?3F%9%F!<%8$K$*$1$k;22C$j$K?;F)$7$9$.$F5o$k$,8N$K$3$l$i$N8@MU$r:#F|$G$OC/$b0U<1$9$k;v$,$J$/$J$C$F$$$k!#



    映画監督

    当初は売れっ子芸能人であることで撮らせてもらっていたが、ヴェネチア国際映画祭 金獅子賞をはじめ国際的な賞も得ている。(各作品の詳細はビートたけし#監督作品|「監督作品」を参照のこと)1989年、北野が初めてメガホンを取った「その男、凶暴につき」は、当初 監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化されるはずであった。松竹の映画プロデューサー・奥山和由は両者の間で交渉を進めたが、たけしのスケジュールが合わず「リハーサルはしない」「演技は本番一回きり」という難しい条件が提示された。深作は60日間の拘束を主張したため交渉は決裂、監督を辞退した。そこで奥山は人物的魅力と話題性から、たけし自身に監督の依頼を持ちかけたところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用され、ここに映画監督・北野武が誕生した。ビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も重要な存在である。東京芸術大学に2005年4月に新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した。監督領域の教授は北野武と黒沢清の二名のみである。また、次兄の北野大も淑徳大学の教授だったので兄弟で教授となる。2007年、第60回カンヌ后 q:]1G2h:W$K>7BT$5$l$?!#$=$N:]!"%^%9%3%_$r%7%c%C%H%"%&%H$7$?>e$! G>>K\?M; V!JF1$8$/%+%s%L9q:]1G2h:W$K>7BT$5$l$?!K$HBPCL$r9T$C$?!#>>K\$O!"<+$i$N=i4FFD:nIJ$G$"$k!XBgF|K\?M!Y$N>e1GESCf$G@J$rN)$D4Q5R$K%7%g%C%/$r


    趣味その他




    [ 数学に対する考え方 ]

    大学が理系であった事からも分かるように、数学に対する造詣も深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語っている。また、かつて「ここがヘンだよ日本人」に出演した少女の、「数学なんか学んで何になる」という言葉に対し、「世の中の全ての現象は数学に支配されており、数学で説明できる」と反論した。しかし「平成教育委員会」の算数の授業で、「数学は答えさえ合ってれば良い」との理系出身者とは思えない理由で、論拠が誤っている正解者を優等生に選出したこともある。ただしこの発言は「数学は答えを導くための式は何通りも存在し、解答として掲載されている計算式に必ずしもこだわる必要はない」あるいは「解答した理由も合わせて答えよ、という設問ではないことから、時にはこういった手段を限定的に用いることもかまわない」といった意味に過ぎない、との解釈も成立する。


    [ スポーツ ]

    サッカー(Jリーグより以前の国内・海外選手に詳しい)や野球をこよなく好み、長嶋茂雄を敬愛している。たけし自身は野球が好きな理由として、誰しもが平等にスターになれるチャンスがあること、どんなに立派な人でも正直に必死にやれるところがいいと述べる。少年時代は『島根イーグルス』、演芸場時代は漫才師の野球チーム『メダトーズ』に所属しておりキャリアは非常に長い。また、草野球チームとしての『たけし軍団』ではピッチャーを務め、マウンドに立つこともある。野球をする時の彼は真剣で、軍団に本気で恐れられた。川崎球場で番組収録中、グラウンドに人気絶頂の光GENJIが登場したため女性ファンの歓声が巻き起こり、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ!コンサートじゃねえんだ!」とスタッフに怒号を発して、場内にいた江夏豊を始めとするプロ選手達を感動させた。明治神宮外苑|神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くもこなしていたという。その勝率は高く芸能人チームでは最強と言われた。1991年の阪神タイガース  &%U%!%s466=$N;n9g!JFp<0Ln5e|軟式)とはいえ勝利を収め「阪神13位」とスポーツ紙を賑わせている。『スナック・茜』のマスターが主催する『茜リーグ』では漫画家・水島新司率いる『ボッツ』が好敵手で、1986年に講談社が企画した試合では後楽園球場を舞台に激戦を繰り広げた。また、長らく続いていた東京スポーツとの確執も草野球で爽やかに手打ちが行われ、この試合における勝利によって同紙客員編集長の座を得たことになっている。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、 1989年。)』では、使い込まれた内野手用のグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれている。本作で三原脩に準えられたそのユニフォーム姿は、イラストレーター・佐々木悟郎の手によって水彩画に仕立てられ『スポーツシャワー〜ヒーローに花束を〜』の中で使用されていたことがある。格闘技ではボクシングを好み、自身もジムに通った経験を持つ。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市 (2003! 年の映画)|座頭市』における逆手切りのフォームには影響ぁ ,3@4V8+$ ($k!#@uAp;~Be$rCN$k@PAR;0O:$b!V%?%1$A$c$s$N%1%s%+$O%\%/%7%s%0%9%?%$%k$G7k9=%Q%s%A$bAa$+$C$?!W$H=R$Y$F$$$k!#%,%C%D@P>>%M%?$O%i%8%*$N?M5$%3!<%J!<$H$J$C$?!#Ev;~!"K=Av7c$7$$%M%?$N?t!9$K=jB0;vL3=j$OJ034$7$F$$$?$,!"%,%C%D<+?H$OBkMH$JBVEY$G$?$1$7$K@\$7$?$H$$$&!#!V%H%+$A$c$s!W$3$HEO2EI_>!CK$OG|5U$NM'$H8F$Y$kCg$G!"$=$N=c>p2DNy$J@-3J$r$?$1$7$K0&$5$l$?!#!XE7:M$?$1$7$N855$$,=P$k%F%l%S!Y$N%\%/%7%s%0M=Hw9;$+$i$OHSED3P;N!&>>EgFsO:$rGZ=P!#C$5H>f0lO:$H$O!XSports Graphic Number|Number』誌上の対談などで懇意となった。映画『キッズ・リターン』ラストシーンの台詞は辰吉に贈られたものでもある。人生のバイオリズムが同期した1997年は運命の不思議を笑いあった。なお、たけし自身は1963年の高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年の金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し拳の一部が変形している。他方、あまり好きでないスポーツとして、バドミントン・バレーボールを挙げて\xA1 $$$k!#$^$?4o3#BNA`$NN`$bITF@0U$G!";R6!$N:"$+$iE4K@$N5U>e$,$j$dD7$SH"$,ITF@-!YFb$G%M%?$K$5$l!"!V%S!<%H$?$1$7$ND7$SH"%*%j%s%T%C%/!W$HBj$7$?6l

    [ タップダンス・ピアノ ]

    漫才ブームが過ぎ、次代に生き残る為の材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティ番組|バラエティショー化が進むと予想していた。そこから「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」という発想が生まれる「ただ漫才しか出来ねぇ奴とかさ、下手な歌やってるアイドルなんて、それ以下になっちゃうの。(中略)お笑いやってる奴の方が、歌を唄ってる奴より音楽性が豊かだったら『おめーら何やってんだよ』って言えちゃうわけよ」景山民夫『極楽TV』JICC出版局、1985年。ISBN 4880631361以降、弟子のたけし軍団もタップ・楽器・神楽#芸能としての神楽|太神楽(ジャグリング)の練習ぁ ,I,=$2JL\$H$J$C$?!#%?%C%W%@%s%9$KBP$9$k;W$$F~$l$O?<$/!"KhF|N}=,$r7g$+$5$:9T$J$&!#1G2h!V:BF,;T (2003年の映画)|座頭市」の撮影では踊るシーンが無いのにも関わらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するという。ピアノを弾くのはフェルディナント・バイエル|バイエル、カール・ツェルニー|ツェルニー、そしてソナチネ(練習曲から本格的な楽曲へ移る分岐点にあたる)までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。ピアノ奏者レベルまで目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だと語った。



    家族・縁戚

    父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は明治時代に娘義太夫の花形であった。2人の兄と1人の姉がおり、次兄はタレントで明治大学教授、博士 (工学)|工学博士の北野大である。また長兄も若い頃から秀才で機械工学に造詣が深かったらしい。妻は元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)、長男、長女の北野井子|井子(しょうこ)。レーサー|レーシングドライバーの松田秀士は義弟である。
    たけしが芸人を志したとき北野家の誰もが反対したが、長兄の妻(たけしにとっては義理の姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。妻の幹子は元女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキ。たけしと結婚して間もないころ、渋谷の飲み屋でテレビ局のプロデューサーを紹介される機会があり、帰りに車で家に送ってもらうことになった。幹子が家に連絡を入れると折悪しくたけしは酩酊しており、電話口から「てめえ人の女房に手を出す気か!」と、凄い剣幕でそのプロデューサーを激しく罵ったという。ちなみに罵られた人物は当時『ママとあそぼう!ピンポンパン』を担当していた横澤彪で、これがたけしと最初の出会いとなった。2004年10月に長女の井子が調理師と入籍し、2005年3月9日に女児を出産し、たけしは「おじいちゃん」となった。しかし同年6月、離婚調停中であることが発覚した。孫誕生後は自宅にちょっと顔を出して、娘の住む家に帰宅。孫をおんぶしたりと面倒を見ているらしい。



    事件・事故




    [ フライデー襲撃事件 ]
    1986年12月9日に、たけし軍団とともにフライデー襲撃事件を起こし逮捕。懲役6ヶ月、執行猶予2年判決(東京地方裁判所|東京地裁、確定)。たけしのレギュラー番組で人気だった天才・たけしの元気が出るテレビ!!や風雲!たけし城|痛快なりゆき番組 風雲!たけし城、スーパーJOCKEYへの出演を謹慎のために半年間欠席した。襲撃した理由は、当時たけしが交際していた女子大生にフライデー記者が校門で急襲取材をしたための報復と言われている。女子大生に暴行で告訴された記者は罰金10万円の判決を受けた。また、たけしを弟子の様に可愛がっていた横山やすしは「悪いのは、たけしやない!悪いのは雑誌『フライデー』や!」とフライデーの取材方法に対して痛烈に批判をした。ちなみに襲撃直前のたけしと軍団を、車で通りがかった堺正章が発見、会話を交わしている。また、襲撃後に連行されて行くたけしと軍団を、講談社「ホットドッグ・プレス」の編集部にいた山田五郎が目撃している。19! 87年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と述べた。


    [ バイク事故 ]

    1994年8月2日午前1時40分。東京都新宿区の都道府県道|都道で飲酒運転での原動機付自転車|原付バイク事故を起こし、入院生活などで半年間ブラウン管から姿を消していた(反則点数7点、免許停止30日)。酒気帯び運転にて書類送検されるも起訴猶予。退院時、顔面は半分麻痺した状態だったが、リハビリにより回復し、復帰当時は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と自らの怪我をネタにした。また、たけしが司会を行っている番組は他の出演者が司会代理を行っていたが、平成教育委員会はたけしと仲の良い明石家さんま、所ジョージ、大橋巨泉が代理講師を務めた。事故の朝、フジテレビ「おはようナイスデイ」(当時司会・生島ヒロシ)は時間を延長して放送。東京放送|TBS「モーニングEye」では、まだ生死が判明していない段階であるにも関わらず、司会の渡辺真理が号泣してしまった。テレビ朝日「やじうまワイド」のコメンテーターだった大島渚は「僕は彼の心情を想うと、友人として何も言う気にはなれない」とコァ a%s%H$r:9$795$($?!#>e5-;v8N$G@8;`$N6-$rWGWS$C$F$$$?;~!"$?$1$7$NL4$NCf$K4{$KK4$/$J$C$F$$$?0o8+@/9'$,=P$F$-$?$H$$$&!#$?$1$7$O!"!V$"$l$O!"$^$@26$,;`$s$8$c$$$1$J$$!#$C$F0o8+$5$s$,8@$$$KMh$F$/$l$?$s$@$m$&$J!W$H!"B`1!8e$N%$%s%?%S%e!<$GEz$($?!#



    人物

    人間は「振り子」であるとして、「思い切り悪いことのできる奴は思い切りいいこともできる、思い切りバカなことのできる奴は思い切り真面目なこともできる」旨の発言をしている。映画監督として評価を得た後もバラエティ番組に出演することにはそうした理由もあると明言している。一人称|自称は「俺」「僕」「オイラ」。「元気が出るテレビ」最終回の挨拶では「僕は…僕ってのはおかしいか。俺は…」と途中から言い直しているように、かなり意識的に使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連する。また、近畿方言に圧倒されていた放送・演芸業界で、意図的に東京方言を使うように心がけていたとされる。たけしの物真似をする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(ただし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は、癖ではなく若手時代に負った怪我の後遺症である。『週刊ポスト』での連載コラムの一節で本人が明らかにした。それによればツービート時代、「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎ぁ rIi=}!#9,$$Bg;v$K$O;j$i$J$+$C$?$,!"$7$P$i$/$NG/7n$K$o$?$j6I$NHVAHCf$G$bIQHK$K%M%?$K$7$?!#$"$^$j$K$b$"$A$3$A$G?aD0$9$k$N$G!";J2q$N5H_70lI'%"%J%&%s%5!<$,!V:#F|$O$?$1$7$5$s8+$F$^$9$+$M!W$HJ|AwCf$K8F$S$+$1$k$[$I$G$"$C$?!#




    評価

    色川武大はビートたけしを評して「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一・藤山寛美・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類した色川武大『なつかしい芸人たち』新潮社、1989年(「銀座百点」掲載、1987年)。(対極として、古川ロッパ・森繁久彌・タモリの名を挙げた)1983年、思想家・吉本隆明は三浦雅士との対談や信濃毎日新聞の連載などで、しばしばビートたけしの事について触れた。そして栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した栗本慎一郎・吉本隆明『相対幻論』冬樹社、1983年。のちに吉本が「海燕」誌上で埴谷雄高と論争になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と指摘した。たけしに対しては進歩派を自認する人の中には否定的な評価をする人物もいる。古くは漫才ブームのころ、不道徳漫才の筆頭ツービートを槍玉にあげて倫理崩壊を論じあげる文章が多く見られた(当時起き\xA1 $?!"%8%g%s!&%l%N%s「ファシズムみんなで進めば怖くない」『朝日ジャーナル』朝日新聞社、1981年。『広告批評』でツービート擁護論を展開していた鶴見俊輔と論争を繰り広げた(鎌田は志村けんが流行させた「七つの子|カラスの勝手でしょ」についても触れ「コミュニケーションの遮断である」と指摘)。もっともこの論争自体も、『夕刊フジ』にエッセイを連載していた小林信彦から、「要は漫才ブームに便乗して、いたいけな学生に週刊誌を売りつけようという」魂胆、と評された。それ以外にも辛淑玉がたけしの軍団に対する態度について権威主義的で弱い者いじめをしていると主張しているほか、佐高信や本多光夫|諸井薫も同様の主張をコラムなどで主張している。また、これ以外でもフラ\xA1 %$%G!<$rH/9T$7$F$$$k9VCL$O!V$*>P$$J82=!W$rM>$jM}2r$7$F$$$J$$O@iCL$HK\5$$N6hJL$,IU$+$J$$E[$i$,$$$k!W$HI>$7$?$j!"HVAHFb$G%F%j!<0KF#$,BeI=E*%.%c%0$G$"$k!V@V?.9f$_$s$J$GEO$l$PI]$/$J$$!W$K$D$$$F!V@V?.9f$rEO$C$F$O$$$1$J$$$H$$$&=eK!0U<1$d%b%i%k$r=e$G$N%Q%m%G%#!iCL$J$N$K!">iCL$H$K$bEDCf$,=P1i$9$k$J$I!"?F8r$b;}$C$?!#0lJ}$G!V%I%J%k%I%@%C%/$N$h$&$K7y$o$l$k$3$H$b1^$o$:K\2;$G<~0O$KFG$rEG$/B8:_$G$"$C$?$O$:$,!"%_%C%-!<%^%&%9$N$h$&$K7y$o$l$k$3$H$r62$lM%Ey@8E*H/8@$7$+9T$o$J$/$J$j$D$D$"$k!W$H$$$C$?0UL#$NO@I>$b!X?@$J$-9q$N%,%j%P!


    映画作品




    [ 監督作品 ]

    監督作品には一部の作品を除き、自らも出演している。その際は原則として、出演は「ビートたけし」名義、映画監督活動は「北野武」名義となっている。*『その男、凶暴につき』(1989年)
       映画監督としてのキャリアスタートは、主演映画に当初予定されていた深作欣二監督の降板に伴って実現する事となった。既存の刑事ドラマへの挑発とも言える、アンチヒロイックな意欲作。警察の実態はフライデー襲撃事件での逮捕時に目にした事実を存分に盛り込んで、リアリティを追求した描写となっている。

  • 『3-4×10月』(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年)
       観客の解釈にチャレンジするかのような謎めいたストーリー。タイトルの意味も映画の中で語られることはない。前作も不条理な結末であったが、本作も引き続き生々しい暴力表現と不条理な展開が盛り込まれており、北野武の映画における暴力のイメージ追求がうかがえる。

  • 『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)
       それまでの暴力的なイメージを一新し、「“死”は誰にでも平等に訪れるもの」をテーマに、聾唖者の純粋な恋愛悲喜劇と、理不尽の存在を描いた。それまで北野作品=暴力という先入観から彼の作品を疎んじていた淀川長治が、評価を180度変えて熱烈に支持。この頃から「映画も作るビートたけし」ではなく「映像作家・北野武」のイメージと評価が形成され始める。また、久石譲と初めてタッグを組んだ作品。

  • 『ソナチネ_(映画)|ソナチネ』(1993年)
       沖縄の海と空の鮮やかなブルー、その中に終始ただよう濃厚な死の雰囲気が鮮烈な傑作。シネフィルや多くの批評家達から熱狂的な支持を得て、日本を代表する映画作家の一人としての地位を主に海外で確立した。

  • 『みんな〜やってるか!』(1995年)
       これまでの賞賛・評価を真っ向から否定するようなナンセンス・コメディ映画。「ビートたけし第一回監督作品」とクレジットされ、バイク事故を起こす直前に完成、復帰後に公開された。のちに曰く「映画とかお笑い自体も全部馬鹿にするような映画にしたいと思ってやったのに、なんにも馬鹿にできなくて、単なる出来の悪い、お笑いにもならないような映画になってしまった『コマネチ!』新潮社、1998年(対談・今村昌平)」。多くの映画評論家に黙殺される結果となったが、淀川長治は「斎藤寅次郎、:en:Mack Sennett|マック・セネットの再来」と絶賛した。

  • 『キッズ・リターン』(1996年)
       1994年のバイク事故からの生還・復帰作。ボクシングジムのシーンは北野自身のボクサー経験を活かし、現役ボクサーが観ても耐えうる作り込みがなされている。

  • 『HANA-BI』(1998年)
       「死」と「暴力」を、詩情豊かに提示するという難題を形にした北野の代表作。ヴェネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞したのを筆頭に、日本を含め世界各国で数々の賞を受賞。フランスの権威ある映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』誌で北野武自身が表紙を飾った特集が組まれたことや、ヨーロッパでは大学の卒業論文に北野映画の研究を取り上げる学生もいるなど『キタニスト』と呼ばれる熱烈なファンも登場した。海外主要映画賞の受賞をきっかけに、北野武監督に対する日本での評価が手のひらを返すように一変。興行面でも、配給網がぜい弱な松竹系から、足かせのない独立系制作へ移行し、商業的成功と無縁だった状況が好転する事になった。

  • 『菊次郎の夏』(1999年)
       道楽者の菊次郎と武少年の奇妙で愛情あふれる関係を丹念に描いた、北野作品では異色の「私小説的」映画。高齢の母さきが入院したのをきっかけに、亡き父、北野菊次郎へのオマージュとして、またHANA-BIで成功した自分への重要な区切りとして、マーケットを意識せずに「今どうしても撮りたいシャシン」として製作。しかし、単に中年男と子供のロードムービーには終わらず、後半は延々とコントが描かれるなど、北野ならではの分裂的な展開を見せる。

  • 『BROTHER』(2001年)
       初の海外ロケ作品で、アメリカに攻め込んだヤクザを描く。今まで評価されなかった北米市場にチャレンジしたが、結局商業的には成功を収めるには至らなかった。

  • 『Dolls (映画)|Dolls』(2002年)
       「文楽が操る人間の道行き物語」をテーマにした実験作。『キッズ・リターン』以来の、複数の人間ドラマを同時進行させる構成をとる。赤い紐でつながれた登場人物像は、浅草修業時代に実在した、2人が紐で繋がっている乞食夫婦「つながり乞食」をヒントにしている。長期ロケにより美しい日本の四季をフレームに収め、芸術性も高く評価されたが、冒頭の文楽とその後のドラマのつながりなど、構成的バランスを欠く面もある。ともあれ常に新しいチャレンジの見られる北野作品の中でも、その内容、映像作りは大きなターニング・ポイントとなっている。

  • 『座頭市 (2003年の映画)|座頭市』(2003年)
       シッチェス・カタロニア国際映画祭グランプリ、ヴェネチア国際映画祭監督賞を受賞。北野が「おかあさん」と呼び、かつて出入りしていた浅草六区の大勝館会長、斎藤智恵子の誕生パーティーで呼ばれて『頼み事があるけど、断っちゃだめ』と製作するように頼み込まれ、前作より短期間で製作された作品。勝新太郎が演じたキャラクターの印象を払拭するかのような金髪、赤の仕込み杖の座頭市が型破りの活躍を見せる。全体に貫かれる「青」のイメージとリズム感あふれる編集。エンディングのタップや師匠深見千三郎仕込みの殺陣技術など、浅草演芸の伝統もたっぷり織り込まれている。依頼された企画であるがゆえに肩の力の抜けた娯楽作品に仕上がり、アメリカ人にも分かりやすいアクション、時代劇であることもあいまって念願の北米での評価も一気に高まった。

  • 『TAKESHIS'』(2005年)
       前作から一転、観客を突き放し、解釈を拒絶するかのような難解な作品。

  • 『監督・ばんざい!』(2007年)


    [ 出演作品 ]

    戦場のメリークリスマスで注目される。映画監督となってからは、JM|Johnny Mnemonicでハリウッド?デビューも果たしているが、バトル・ロワイアルなど、監督作品同様、その評価は賛否が分かれる。自分以外の作品に出演する際は監督に意見しないようにしているという。上述の自らの監督作品は除いている。* ゆけゆけ二度目の処女(1969年、エキストラ出演)

  • まことちゃん(1980年、アニメ映画に声優で本人役カメオ出演)

  • すっかり・・・その気で!(1981年、初主演作品)

  • マノン(1981年、主演:烏丸せつこ)

  • 戦場のメリークリスマス(1983年、大島渚監督、坂本龍一と共演、友川かずきの代役に選ばれた。)

  • 十階のモスキート(1983年、崔洋一監督、内田裕也と共演)

  • コミック雑誌なんかいらない(滝田洋二郎監督、内田裕也と共演)

  • 哀しい気分でジョーク(1985年)

  • 夜叉(1985年、高倉健と共演)

  • 教祖誕生(1993年、たけし原作、萩原聖人と共演)

  • JM|Johnny Mnemonic(1995年、キアヌ・リーブスと共演)

  • Tokyo Eyes(1998年、ジャン・ピエール・リモザン監督、武田真治と共演)

  • 御法度 (映画)|御法度(1999年、大島渚監督)

  • バトル・ロワイアル (映画)(2000年、深作欣二監督)

  • バトル・ロワイアル 【特別篇】(2001年、深作欣二監督)

  • バトル・ロワイアルII 鎮魂歌|バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】(2003年、深作欣二・深作健太監督)

  • 血と骨(2004年、崔洋一監督)



    年現在の出演番組




    [ レギュラー番組 ]


  • 世界まる見え!テレビ特捜部(日本テレビ放送網|日本テレビ)

  • たけしのコマネチ大学数学科(フジテレビジョン|フジテレビ)

  • 奇跡体験!アンビリバボー(フジテレビ)

  • ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日)

  • 最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学(朝日放送|ABC)

  • たけしの誰でもピカソ(テレビ東京)

  • チャンネル北野eX(フジテレビ721)


    [ 単発・不定期番組 ]


  • 平成教育委員会スペシャル(フジテレビ)

  • たけしの日本教育白書(フジテレビ)



    過去の出演番組

    NHK総合テレビジョン|NHK総合

  • 北野武の宵越しスーパートーク(1998年元旦、井上ひさし・諏訪内晶子・市川猿之助 (3代目)|市川猿之助との対談)
        井上ひさしとの対談は(井上ひさし『浅草フランス座の時間』文春ネスコ、2001年。ISBN 4890361235)に再録されている。
    日本テレビ放送網|日テレ

  • テレビに出たいやつみんな来い!!

  • わっ!!ツービートだ

  • OH!たけし

  • 蝶々・たけしの21世紀まで待てない!
        この番組でミヤコ蝶々と初共演し自宅にまで招かれた。のちに蝶々は木曜「EXテレビ」でたけしの人物像を語った。

  • スーパージョッキー

  • 天才・たけしの元気が出るテレビ!!

  • ビートたけしの全日本お笑い研究所|ビートたけしの全日本お笑い研究所→番組の途中ですが…再びたけしです

  • ビートたけしのお笑いウルトラクイズ

  • 新橋ミュージックホール

  • 世界超偉人伝説

  • 20年大河バラエティ!目からウロコ…1986年バブル経済から2007年超近現代史さんま&所が解明!?人間は相変わらずアホか? (日本テレビ系2007年4月30日放送)

  • たかじんnoばぁ〜(飛び入りゲスト、最終回にも出演)
    東京放送|TBS

  • たけしのお笑いサドンデス(お笑いサドンデス)
        日本版:en:The Gong Show|ゴングショー。審査員には落語協会を脱退した直後の立川談志がキャスティングされ、たけしが落語立川流|立川流に入門するきっかけとなった。

  • たけしのホッカホッカタイム

  • 笑ってポン!

  • 世界まるごとHOWマッチ!!

  • ギミア・ぶれいく

  • たけし・所のドラキュラが狙ってる

  • 二百三高地

  • 風雲!たけし城

  • ここがヘンだよ日本人

  • 総天然色バラエティー 北野テレビ
    フジテレビジョン|フジテレビ

  • たけし・逸見の平成教育委員会(※この番組では北野武名義。)

  • FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島(1987、90)→FNSスーパースペシャル1億2000万人のテレビ夢列島91’→平成教育テレビ→FNSの日
        1992年〜1996年は総合司会として参加、1987年は深夜に飛び入り参加。これによりビッグスリー|BIG3が誕生した。また1992年の平成教育テレビの前日、笑っていいとも!に登場し、当時は明石家さんまも金曜レギュラーだった為、タモリ、たけし、さんまが正月のスペシャル、FNSの日以外で珍しく3人が集まったこともあった。1997年以降はFNSの日に登場していない。なお「タモリと俺って言ったら20年くらい前なら嫌いな芸人のベスト3に必ずいる芸人だった、さんまもかつてはそうだったね。けど、今はみんな好きな芸人ベスト10に入っている。世の中不思議なもんだね。」と以前番組中に述べたことがある。

  • ビートたけしのつくり方

  • FNN DATE LINE|FNNデイトライン特別版

  • たけしのここだけの話

  • 北野ファンクラブ

  • 北野富士

  • 足立区のたけし、世界の北野

  • たけしの斉藤寝具店

  • タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ

  • FNS超テレビの祭典

  • 加ト・けん・たけしの世紀末スペシャル!!

  • たかじん胸いっぱい(2003年大晦日スペシャルにゲスト出演)

  • たけしの日本教育白書

  • 北野タレント名鑑
    テレビ朝日

  • ビートたけしのアイドルパンチ

  • ビートたけしのスポーツ大将

  • スポーツシャワー~ヒーローに花束を~

  • 神出鬼没!タケシムケン

  • たけしの万物創世紀

  • たけし・所のWA風が来た!

  • ビートたけしの!こんなはずでは!!

  • たけしのポリスアカデミー
    テレビ東京

  • 気分はパラダイス!
        イースト (テレビ制作会社)|イーストが初めて携わったたけしの番組。81年10月開始当初は宮崎美子の音楽番組だったが、82年4月からたけしにバトンタッチ。開始前に構成の景山民夫が会いたい人物の名を訊くと、たけしは田中角栄と江川卓の名をあげた(江川は実現)。



    ラジオ出演番組


  • ビートたけしのオールナイトニッポン(ニッポン放送)

  • 街でいちばんの男 ビートニクラジオ(エフエム東京|TOKYO-FM)



    CM出演

    CM出演はこのクラスの芸能人としては少ない部類に入る。アサヒビール「Z」のCMに出演した際にはキャッチフレーズを口ずさんでいたが、ある番組中において話が及ぶと、「あのまずいビール」などと語ったり、コーラのCMに出演中だったにもかかわらず、別の会社のコーラを飲んでいたりしたこともある。大橋巨泉と共演した「アサヒ生ビール」のCMは撮影終了していたにも関わらず、フライデー襲撃事件の影響でお蔵入りしてしまった(CMのスナップショットは大橋の自伝『ゲバゲバ70年!』の中で見る事が可能)。1984年、「スーしませう」のキャッチコピーで発売された「白仁丹」や、ペプシの比較CMをパロディ化した『デミュートサンスター』では企画・演出にも深く関わる。他にも資生堂「アウスレーゼ」のCM企画を出していたが実現しなかった。1992年、宮沢りえが出演したエドウインのCMでは企画のほかディレクションも自身が行った。2007年からロシア独立国家共同体|CIS地域でPANASONICブランドの薄型テレビのCMに出演している。ロシアでは『風雲たけし城』や北野武名義の映画が好評で、ロシア人にも知名度が高い事から起用された。同CM広告担当者によると、「日本の有名人が単独で海外の国々でCMモデルになるのは初めてではないか」との事である。


    [ CM出演作 ]


  • サントリーフーズ |サントリー バイオミンX ※母親・北野さきと共演。

  • 森下仁丹 白仁丹

  • サンスター デミュートサンスター

  • 新進 北野印度福神漬

  • エスエス製薬 エスファイト

  • エースコック スーパーカップ ※宮沢りえと共演。

  • UCC上島珈琲 ジョルトコーラ

  • トヨタ自動車 カローラ ※BGMには菊次郎の夏のBGMが流れた。

  • アサヒビール Z
       en:Diageo|MHD ディアジオ モエ ヘネシー ジョニーウォーカー

  • 明治乳業 明治プロビオヨーグルトLG21

  • 中外製薬 グロンサンCompact

  • 大阪ガス 企業CM



    主演ドラマ  (★印は連続ドラマ)


  • 刑事ヨロシク(1982・TBS)★

  • 昭和46年 大久保清の犯罪(1983・TBS)

  • ビートたけしの学問ノススメ|学問ノススメ(1984・TBS)★

  • イエスの方舟(1985・TBS)

  • 立体ドラマ5時間 1987年の大晦日「昭和大つごもり」(1987年・フジテレビ)※倉本聰とたけし夢のコラボ。

  • 浮浪雲(1990・TBS)★ - 視聴率的には振るわず、自身でもしばらくの間「はずれ雲」とネタにしていた。

  • 忠臣蔵(1990・TBS)大石内蔵助役

  • 実録犯罪史シリーズ 金(キム)の戦争 ライフル魔殺人事件(1991・フジテレビ)

  • 説得 エホバの証人と輸血拒否事件(1993・TBS)

  • 兄弟(1999・テレビ朝日) - 原作・なかにし礼

  • 三億円事件(2000・フジテレビ)

  • 明智小五郎対怪人二十面相(2002・TBS)

  • 火曜サスペンス劇場・松本清張スペシャル 鬼畜(2002・日本テレビ)

  • 松本清張没後10年記念 張込み(2002・テレビ朝日)

  • 松本清張 点と線(2007・テレビ朝日)鳥飼重太郎役


    [ 出演ドラマ ]


  • 武蔵 MUSASHI|武蔵 MUSASHI(NHK)新免無二斎役

  • 和田アキ子殺人事件(TBS)ビートたけし役



    著作物

    連載コラムや著書の文章の殆どは、本人が多忙であるため、北野武が口述し、それをライターに文章として起こしてもらっている(コマネチ!2にて、本人のコメントによる)。


    [ ツービート名義 ]


  • ツービートの わっ毒ガスだ(1980.6.5 KKベストセラーズ)

  • もはやこれまで(1980.10.5 KKベストセラーズ)

  • ツービートの逆襲(1981.4.5 KKベストセラーズ)

  • 笑ってゴマかせ(1981.12.5 KKベストセラーズ)

  • ツービートとどめの一撃(1981.8.31 徳間書店)


    [ 北野武名義 ]


  • 余生(2001.2.25 ロッキングオン)

  • 孤独(2002.7.26 ロッキングオン)

  • 時効(2003.9 ロッキングオン)

  • 異形(2004.12 ロッキングオン)

  • 光(2005.11 ロッキングオン)

  • 武がたけしを殺す理由 全映画インタヴュー集(2003.9 ロッキングオン)

  • イチロー北野武キャッチボール(2003.7 ぴあ)


    [ ビートたけし名義 ]


  • たけし! オレの毒ガス半生記(1981.11.20 講談社)

  • ビートたけしのごっくん日本史(1982.10.25 リヨン社)(ゴーストライター作と言われている)

  • ビートたけしの変態志願(1982.12.5 KKベストセラーズ)

  • 恐怖びっくり毒本(1983.8.5 KKベストセラーズ)

  • ビートたけしの幸せ独り占め(1981.12.5 オールナイト・ニッポン サンケイ出版)

  • ビートたけしの幸せになってしまいました(1982.10.20 オールナイト・ニッポン サンケイ出版)

  • ビートたけしの三国一の幸せ者(1982.12.5 オールナイト・ニッポン サンケイ出版)

  • ビートたけしの無条件幸福(1983.12.20 オールナイト・ニッポン リビングマガジン)

  • ビートたけしのニッチもさっちも(1984.12.15 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)

  • ビートたけしの幸か不幸か(1985.12.16 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)

  • ビートたけしの不幸中の幸い(1986.12.16 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)

  • ビートたけしの全面幸福(1988.5.9 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)

  • ビートたけしのその男幸せにつき(1990.1.5 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)

  • ビートたけしの幸せ
  • posted by れびゅんAE86 at 02:22| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2008年02月09日

    映画監督[溝口健二]

    お待たせ!
    映画ファン「映画監督・評論家編」
    溝口健二



    溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、東京都出身の映画監督。女性を主人公に据えた情緒的な作品が多い。



    来歴

    1898年5月16日、東京市浅草区に生まれる。小学校卒業後、神戸又新日報|神戸又新日報社に図案係として勤務。1920年(大正9年)日活撮影所|日活向島撮影所に入る。関東大震災後、同京都撮影所に移る。1925年(大正14年)、恋人であり同棲中の雇女(別れた後?貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で斬られる事件以来、以後女性をテーマにした作品に独特の感覚を発揮するようになる。1932年(昭和7年)?日活を辞め入江たか子の入江プロダクションで仕事をするようになり、『満蒙建国の黎明』、『瀧の白糸』が大ヒット。1934年(昭和9年)、永田雅一の第一映画に参加、のち松竹・大映と移る。戦中戦後はスランプとなりヒットがなく引退が時間の問題といわれた。客を呼べなくなった田中絹代を主役にするなと言う周りの声に耳を貸さず重用し続けた。1952年の『西鶴一代女』はヒットしなかったが、ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を得て流れが変わる。1953年『雨月物語』(銀獅子賞)、1954年『山椒大夫』(銀獅子賞)という3年連続の同映画祭での入賞ぁ O!"F|K\9qFb$G$OB>$KN`$r8+$J$$8y@S$G$"$k!#$=$N8e$^$b$J$/BND4$rJx$7!"1956年(昭和31年)、『赤線地帯』撮影後の8月24日、白血病のため京都で死去。58歳没。同作が遺作となった。ジャン=リュック・ゴダールをはじめ、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ベルナルド・ベルトルッチ、ジャック・リヴェット、ピエル・パオロ・パゾリーニなどヌーベルヴァーグ世代のヨーロッパの映画作家に多大な影響を与えた。とりわけゴダールの溝口への傾倒ぶりは有名で、「好きな監督を3人挙げると?」との問いに「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えたほどである。またゴダールは1966年、溝口の墓に参っている。黒澤明、小津安二郎、木下恵介、成瀬巳喜男らと並び称される日本映画の巨匠であり、没後50年に当たる2006年には、2003年の小津生誕100周年、2005年の成瀬生誕100周年同様DVD BOXのリリースや名画座などでの回顧特集が組まれ、改めて注目を浴びた。



    おもなフィルモ\xA1 %0%i%U%#

    ※1953年までの作品は著作権の保護期間が完全に終了(公開後50年と監督没後38年の両方を満たす)したことから幾つかの作品が現在パブリックドメインDVD|激安DVDで発売中。

  • 1923年 愛に甦へる日

  • 1929年 東京行進曲 原作菊池寛

  • 1929年 朝日は輝く 共同監督伊奈精一

  • 1933年 瀧の白糸 原作泉鏡花

  • 1935年 折鶴お千 原作泉鏡花

  • 1935年 虞美人草 原作夏目漱石

  • 1936年 浪華悲歌

  • 1936年 祇園の姉妹

  • 1937年 愛怨峡

  • 1938年 露營の歌

  • 1939年 残菊物語 原作村松梢風

  • 1941年 藝道一代男

  • 1941年 - 1942年 元禄忠臣蔵 前篇・後篇 原作真山青果

  • 1946年 女性の勝利

  • 1946年 歌麿をめぐる五人の女 原作邦枝完二

  • 1947年 女優須磨子の恋 原作長坂秀雄

  • 1948年 夜の女たち 原作久板栄二郎

  • 1950年 雪夫人絵図 原作舟橋聖一

  • 1951年 お遊さま 原作谷崎潤一郎

  • 1951年 武蔵野夫人 原作大岡昇平

  • 1952年 西鶴一代女 原作井原西鶴 ※ヴェネツィア国際映画祭国際賞、BBC「21世紀に残したい映画100本」に選出

  • 1953年 雨月物語#派生作品|雨月物語 原作上田秋成 ※ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー経歴賞

  • 1953年 祇園囃子 原作川口松太郎

  • 1954年 噂の女

  • 1954年 近松物語 原作近松門左衛門 ※第8回カンヌ国際映画祭コンペティション

  • 1954年 山椒大夫#映画版|山椒大夫 原作森鴎外 ※ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞

  • 1955年 新・平家物語 (映画)|新・平家物語 原作吉川英治 ※ヴェネツィア国際映画祭コンペティション

  • 1955年 楊貴妃 (映画)|楊貴妃 ※ヴェネツィア国際映画祭コンペティション

  • 1956年 赤線地帯 ※ヴェネツィア国際映画祭コンペティション



    作風


  • 演技の流れをカット割りによって断ち切ってしまうことを嫌い、(特に後年の作品において)1カット数分に及ぶような長回しを多用した。結果として流麗かつ緊張感にあふれた演出を編み出し、右腕であったカメラマン宮川一夫の撮影とあわせて高評価を得た。

  • 上述通り女性を中心に据えた濃密なドラマの演出に才を見せる一方、歴史劇製作に際しての綿密な考証によっても知られる。『元禄忠臣蔵』撮影の際は実物大の松の廊下のセットを製作(建築監督として新藤兼人が参加)したり、『楊貴妃』では当時の中国唐代研究の最高峰である京都大学人文科学研究所に協力を依頼したり、宮内庁雅楽部の尽力により唐代の楽譜を音楽に活用するといった、妥協のない映画作りを展開している。また、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗考証担当に抜擢した事でも知られる。

  • 役者に演技をつけずやり直しを命じ、悩んだ役者がどうすればいいのか訊いても「演技するのが役者の領分でしょう」といっさい助言などをしなかった。出演者に強い付加と緊張を強いる演出法ながら、「ちゃんと考えて、セットに入るときにその役の気持ちになっていれば、自然に動けるはずだ、と監督さんはおっしゃるんです。それは当然ですよね」という香川京子のコメント没後五十年特別企画「溝口健二の映画」カタログ「はじめての溝口健二などの好意的な評価も見られる。

  • 演出の際、俳優たちに「反射していますか」と口癖のように言って回った。これは「相手役の演技を受けて、自分の演技を相手に“はね返す”」といったような意味合いであったといわれる。長回し主体の溝口演出においては重要な点であった。

  • こうした一切の妥協を見せず俳優やスタッフを厳しく叱咤する演出法から、「ゴテ健」(ゴテるとは、不平や不満を言うこと)とあだ名された。

  • 『西鶴一代女』で家並みのセットを作ったところ、溝口がやってきて「下手の家並みを1間前に出せ」といった。それはほんのワンシーンのためのセットで映画の中でさほど重要ではない。助監督はやむなく嫌がる大道具のスタッフに頭を下げて徹夜で作り直させた。翌日、セットを見て監督が言うには「上手の家並みを1間下げろ」。つまり結局は元に戻せということであり、助監督は激怒して帰宅したと伝えられる。この言いがかりとも考えられる指示は、演出に行き詰っていたための時間稼ぎだったと言われる。

  • 宮川一夫(カメラマン)、依田義賢(脚本)、水谷浩(美術)、早坂文雄(音楽)といった類まれな才能を持ったスタッフが溝口組に参加していた。中でも水谷は日本では他のスタッフより知名度が低いが、反対にフランスでは水谷が一番有名。彼の手による溝口のデスマスクが、現在でも保管されている。



    人物


  • 映画人との私的な交際はあまり見られなかったが、田中絹代とは公私にわたる親交を育んだ。田中との親交を物語るエピソードとして、幼時から「美人ではないが(演技力がある)」という冠詞をもって語られることの多い田中に、『お遊さま』撮影に際し「あなたを最も美しく撮ります」と語ったという話がある。

  • 田中とはその後、彼女が映画監督をやることになったことを記者から聞かされて「田中の頭では監督は出来ません」と答え、関係に距離が生じたとされている。ただしこのコメントには田中が自分の元から離れてしまうことへの嫉妬心があったともされる。

  • 女性に対する暴言も有名で、前述のように情婦を怒らせ斬られている。『祇園囃子』の際、若尾文子に対して決して名前を呼ばず「おい?子供」、『赤線地帯』の際には「顔の造作が悪い」と罵倒した。かつて入江ぷろだくしょんに雇われ、名匠と呼ばれるきっかけを作った恩人でもあった入江たか子に対してすら、『楊貴妃』の際「化け猫ばかりやってるからそんな芸格のない芝居しか出来ないのだ」と満座の中で罵倒している。また『雨月物語』の際、水戸光子に向かって、「あんたは輪姦された経験がないんですか!」 と言い放った。ただし田中には、上記のコメントを除いては常に紳士的な態度を崩さなかった。

  • 他に『わが恋は燃えぬ』の際、菅井一郎に向かって、「君は脳梅毒です!医者に診てもらいなさい!」と言い放ち、『山椒大夫』の際、子役に向かって「この子はどうしようもないバカだね!」と言い、すぐ近くにいた母親は真っ青になった。

  • 一方で『雨月物語』撮影中には、会心の演技を見せた森雅之が「誰かタバコをください」と言った時に、自ら率先してタバコを差し出し火を点けて労ったという話もある。これにはスタッフや森自身も大いに驚いたらしい。

  • 『西鶴一代女』をプロデュースした児井英生児井英生『伝 日本映画の黄金時代』(文藝春秋、1989年 ISBN 4163430105)の記述を参照。によると溝口監督はわがままで、権威のある人には弱く、目下のものには横暴というタイプであるため役者からもスタッフからも嫌われていた。さらに映画で使われた道具を内緒で自分のものにしてしまったり、自分の生活費の一部を映画の製作費から支払わせていたということもあった。

  • ただし、溝口に崇拝の念を抱いている新藤兼人などは人格面でも一定の評価を下している。

  • 友人は少なかったが、幼馴染の川口松太郎や花柳章太郎とは親交を長くもったという。

  • 成瀬巳喜男の『浮雲 (映画)|浮雲』が話題になっていたとき、当時の助監督の熱心な勧めによって鑑賞したが、その助監督に「成瀬には金玉が付いとるのですか」と感想を語ったことがある。両者の作風や人間性の違いを物語るエピソードである。

  • 日本映画史上初の女性監督は坂根田鶴子(さかねたづこ)で、彼女は戦前の溝口作品で助監督を務めていた。そして2人目は田中絹代であり、溝口は女性監督第1号と第2号に深く関わっていることになる。

  • 映画会社から新人だった宮川一夫を使うよう命令されて、溝口はひどく立腹するも、いざ仕事をするとその態度は豹変。他の監督の撮影が延期して宮川が溝口組に参加できなくなると、「僕たちの仲を裂くんですか!」と会社に抗議した。

  • 溝口は俳優の演技に興奮すると我を忘れて手をブルブル震わせる癖があり、その振動が横にあるカメラにまで伝わるほどだった。そこで高い場所など不安定な位置からの撮影時は、本番になると溝口と同じ体重分の鉄板をカメラの横に置いて、本人は別の場所に移動してもらっていた。本番もできるだけカメラと同じ位置で見ようと、梯子の上に座布団を乗せて馬乗り状態の溝口の写真が残っている。また溝口は最初、宮川一夫から手の震えを指摘されても全然本気にせず、ラッシュ(未編集の下見用フィルム)で目の当たりにして、「こんなに震えてるのかい?」と照れくさそうに笑って素直に認めたという。



    関連項目


  • 映画監督一覧 - 日本の映画監督一覧

  • 田中絹代

  • 三船敏郎



    参考文献


  • 溝口健二というおのこ』、津村節夫、実業之日本社、1958年 (芳賀書店、1977年)

  • 溝口健二の人と芸術』、依田義賢、映画芸術社、1964年
    :社会思想社、1996年 ISBN 439011588X
    :田畑書店、2003年 ISBN 4803800294

  • 『ある映画監督の生涯 - 溝口健二の記録 -』、新藤兼人、映人社、1975年

  • 溝口健二の世界』佐藤忠男、平凡社ライブラリー、2006年 ISBN 4582765939

  • 『映画監督 溝口健二』、四方田犬彦編、新曜社、1999年 ISBN 4788506920

  • 映画『ある映画監督の生涯』、監督新藤兼人、1975年、日本アート・シアター・ギルド|ATG ※ドキュメンタリー、関係者のインタビュー集

  • 映画『時代を越える溝口健二』、監督櫻田明広、2006年、角川ヘラルド映画 ※ドキュメンタリー









    外部リンク


  • kadokawa

  • 溝口健二 - 人と作品 個人の研究サイト

  • 日本映画データベース:溝口健二 - 全フィルモグラフィー



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    2008年02月08日

    映画監督[犬童一心]

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    犬童一心



    犬童一心(いぬどういっしん)は、映画監督であり、2003年に公開された映画「ジョゼと虎と魚たち」(田辺聖子原作)の監督。*1960年6月24日東京都生まれ。東京造形大学卒業。
    法政一校在学中より自主制作映画の監督、製作をスタート。

  • 1969年『気分を変えて?』の脚本・監督をつとめ、ぴあフィルムフェスティバル入選。
    大学卒業後は朝日プロモーション(現ADKアーツ)入社。
    CM演出家として数多くのTVCMの企画・演出を手掛け、ACC賞、IBA、ニューヨーク・フェスティバルなど受賞多数。
    CM演出のかたわら、1993年『何もかも百回も言われたこと』監督・製作。 同年、実写とアニメーションを組み合わせた短編『金魚の一生』監督・製作で「キリンコンテンポラリーアワード」
    1993年度最優秀作品賞受賞を機に、 翌年『二人が喋ってる。』で長編デビュー。サンダンスフィルムフェスティバル in東京でグランプリ、日本映画監督協会新人賞受賞。
    同作をきっかけに98年、市川準監督より『大阪物語』の脚本執筆を依頼される。

  • 1999年、『金髪の草原』を監督。 脚本家としては、塩田明彦監督『黄泉がえり』を担当し、大ヒット。
    2003年、(第54回)芸術選奨賞映画部門において、監督作品『ジョゼと虎と魚たち』が蓮見重彦、大林宣彦、佐藤忠雄、羽田澄子、山田洋次、高野悦子、市川準等の審査員によって「文部科学大臣新人賞」に選出された。
    最新作は2005年公開予定の『メゾン・ド・ヒミコ』。




    フィルモグラフィー


  • 『二人が喋ってる。』1995年(監督/脚本)

  • 『大阪物語』1999年(脚本)

  • 『ドリームメーカー』1999年(脚本)

  • 『金髪の草原』2000年(監督/脚本/編集)

  • 『黄泉がえり』2002年(脚本)

  • 『ジョゼと虎と魚たち』2003年(監督)

  • 『死に花』2004年(監督)

  • 『いぬのえいが』2005年(監督)

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    2008年02月07日

    映画監督[篠田正浩]

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    篠田正浩



    篠田 正浩(しのだ まさひろ、1931年3月9日 - )は、岐阜県岐阜市出身の映画監督。妻は、女優の岩下志麻。



    略歴


  • 早稲田大学文学部卒業。在学中は競走部に所属し、箱根駅伝のランナーとして花の2区を走ったことも。

  • 大学卒業後松竹に入社。1960年、『恋の片道切符』で監督デビュー。

  • 1986年『鑓の権三』で、ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。

  • 1990年『少年時代』で、日本アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞を受賞。



    監督作品


  • 恋の片道切符

  • 乾いた湖

  • 夕陽に赤い俺の顔

  • わが恋の旅路

  • 三味線とオートバイ

  • はなれ瞽女おりん

  • 夜叉ヶ池

  • 悪霊島

  • 瀬戸内少年野球団

  • 鑓の権三

  • 卑弥呼(1974年)

  • 少年時代

  • 写楽(1995年 原作:皆川博子)

  • 梟の城(1999年 原作:司馬遼太郎)

  • スパイ・ゾルゲ(2003年)

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    2008年02月06日

    映画監督[山田洋次]

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    山田洋次



    山田 洋次(やまだ ようじ、1931年9月13日 - )は、大阪府豊中市出身の映画監督、脚本家。野村芳太郎の助監督を経て、1961年に『二階の階段』でデビューする。以降、膨大な数の人情劇を、実に精力的に発表する。作風は、凡庸である。特にカメラワークに凝る事も無く、目が覚める程の色彩を撮る事も無く、複雑に入り組んだ話を書く事も無い。特に大きな事件は描かず、普通の一般人の平板な日常生活を描く。コーエン兄弟、スタンリー・キューブリック、テオ・アンゲロプロスの様な、高級な映画は作らない。故に、「庶民的で分かり易い」「ヒューマニスティック」と評価する声も有れば、「偽善的」「陳腐な御伽噺」との批判もあり、賛否は分かれる。この意味でも、常に議論の中心に置かれる存在と言える。特徴として、『男はつらいよ』や『学校_(映画)|学校』の様に、同一の主題を持つシリーズを飽きずに何本も作る。シリーズ作品はどれも同じ話で、完全に予定調和の世界である。既視感が強い事は否めない。このため、「延々と続く二番煎じ」「全く冒険しない」「極めて惰性的」と、厳しい批判は数多い。日\xA1 K\6&;:E^$N;Y;}


    来歴

    満州鉄道のエンジニアだった父親の勤務のため、満州で少年期を過ごした。敗戦後、一家で日本に引き揚げる。1954年に大学を卒業して、松竹に入社する。野村の作品の脚本家・助監督を務めた。1961年に、『二階の他人』で監督としてデビューした。大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった気鋭の新人たちが松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。ヌーヴェルヴァーグ派が松竹から独立してゆく中、松竹大船調路線の後継者として『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』などの作品で、企業内監督の道を歩む。1969年に、『男はつらいよ』を発表する。その後27年間に48作が製作される大ヒットシリーズとなり、国民的映画とまで言われた。この間『男』シリーズと平行して、『家族』、『幸福の黄色いハンカチ』、『学校』シリーズなどを発表。2000年9月に、第7回平壌国際映画祭に特別招待された。「日朝交流に尽力したい」との思いで、『男』と『学校』を上映した。北朝鮮で日本映画が公開されるのは、これが初である。金日成と金正日は、『男』のファンである。そして、日朝合作で北朝\xA1 A/$rIqBf$K$7$F!XCK!Y$r@):n$7$h$&$H$N7W2h$bIb>e$7$?!#$7$+$72002年9月に、正日が工作員による日本人拉致を認めた後は、計画が頓挫する。それでも山田は、「是非とも日朝交流に寄与したい。日朝国交正常化が実現したら、日朝合作映画を撮る」と並ならぬ意欲を示した。2002年に、藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』を発表する。山田にとって初の時代劇であり、藤沢の作品の映画化も、これが初であった。他の時代劇では無視され続けてきた、位の低い武士の苦悩を描いた物語である。構想に10年をかけ、時代考証に徹底して拘った。登場人物が綺麗な新品の服ではなく、着古した古着を着ていたり、毎日月代を剃るはずがないから、剃った部分に髪が生えてくる等の、実に細かい部分をリアルに丹念に描いた。新鮮な時代劇と話題を呼び、大ヒットとなった。真田広之と宮沢りえの高い演技力もあって、出色の時代劇と評価され、日本の映画各賞を独占した。そして、1990年代後半以降低迷していた宮沢の、見事な復活作ともなった。2003年2月に、第57回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品される。2004年に、\xA1 Bh76回アカデミー賞外国語映画賞の候補になる。授賞式には真\xA1 ED$H=P@J $7!"!V$b$7^$7$?$i!"<+J,$O1Q8l$,ITF@0U$@$+$i!"??ED7/$KBeFI$G%9%T!<%A$7$FLc$&!W$H$NH/8@$,0u>]E*$@$C$?!#2004年に、再び藤沢原作の時代劇『隠し剣 鬼の爪』を発表する。ここでも位の低い武士の苦悩を描いたため、前作を踏襲した作品と位置づけられた。前作が高く評価されただけに、安易に同じシリーズを作る山田に対し、辟易し絶望する人は少なくなかった。『男』に続く山田のドル箱映画を作ろうとの、松竹の目論見を指摘する意見も有った。同作の公式サイトの掲示板には観客からの批判が相次ぎ、掲示板は4か月程で閉鎖された。



    学歴


  • 東京都立小山台高等学校卒業。

  • 1954年 - 東京大学法学部卒業。



    受賞歴


  • 1966年 - 『運がよけりゃ』でブルーリボン賞監督賞。

  • 芸術選奨文部大臣賞。

  • 毎日芸術賞。

  • 1972年 - 『男』で第20回菊池寛賞。

  • 1973年 - 『男』で第28回毎日映画コンクール監督賞。

  • 1977年 - 『幸せの黄色いハンカチ』
    第1回日本アカデミー賞監督賞。
    ブルーリボン賞監督賞。
    毎日映画コンクール監督賞。

  • 山路ふみ子映画賞。

  • 第4回日本映画復興賞。

  • 1996年 - 紫綬褒章。

  • 2004年 - 文化功労者に選定。



    外部リンク


  • 日本映画データベース

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    2008年02月05日

    映画監督[犬童一心]

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    犬童一心



    犬童 一心(いぬどう いっしん、男性、1960年6月24日−)は、日本の映画監督。東京都生まれ。東京造形大学造形学部卒業。



    来歴

    法政大学第一高等学校(現:法政大学中学高等学校|法政大学高等学校)在学中より自主制作映画の監督、製作をスタート。1979年『気分を変えて?』の脚本・監督をつとめ、ぴあフィルムフェスティバル入選。自主制作時代、池袋文芸坐(現・新文芸坐)主催のMWC(マインド・ウェーブ・シネマ)に参加、1982年『赤すいか黄すいか』(16mmフィルム)、1983年『夏がいっぱい物語』(8mmフィルム)などのフィルムによる作品を手がけている。
    大学卒業後は朝日プロモーション(現ADKアーツ)入社。
    CMディレクターとして数多くのTVCMの企画・演出を手掛け、全日本シーエム放送連盟|ACC賞、IBA、ニューヨークフィルムフェスティバルなど受賞多数。CM演出のかたわら、1993年『何もかも百回も言われたこと』監督・製作。 同年、実写とアニメーションを組み合わせた短編『金魚の一生』監督・製作で「キリンコンテンポラリーアワード」1993年度最優秀作品賞受賞を機に、翌年『二人が喋ってる。』で長編デビュー。サンダンスフィルムフェスティバル in東京でグランプリ、日本映画監督協会新人賞受賞。 同作をきっかけに98年、市川準監督より『大阪物語』の脚本執筆を依頼される。 1999年、『金髪の草原』を監督。 脚本家としては、塩田明彦監督『黄泉がえり』を担当し、大ヒット。2003年、(第54回)芸術選奨映画部門において、監督作品『ジョゼと虎と魚たち』が大林宣彦、佐藤忠男、羽田澄子、山田洋次、高野悦子 (映画運動家)|高野悦子、市川準等の審査員によって「文部科学大臣新人賞」に選出された。余り知られていないが大林宣彦監督の『ねらわれた学園 ! (映画)|ねらわれた学園』(1981年)にて、生徒会長『高見沢みちる』の超能力で懲らしめられる不良学生役で出演している。(同作品には『有川正彦』役の手塚眞をはじめ、当時の自主映画関係者が多数エキストラ参加している)。映画監督髄一の少女漫画家大島弓子ファン。現時点で自主映画時代を含め3本の長編作品を映画化。思い入れの強さはグーグーだって猫であるが金髪の草原以来の監督・脚本兼務に現れている。



    フィルモグラフィー


  • 『気分を変えて?』1979年(監督/脚本)※8mm映画

  • 『ミッドナイト・ドライブイン・シアター (ポッキー・ホラーショー)』1982年(監督)※8mm映画
     (オムニバス映画。他に手塚眞、今関あきよしらが監督)

  • 『赤すいか黄すいか』1982年(監督/脚本)※16mm映画(モノクロ)

  • 『夏がいっぱい物語』1983年(監督/脚本)※8mm映画

  • 『金魚の一生』1993年(監督/脚本)

  • 『何もかも百回もいわれたこと』1993年(監督)

  • 『二人が喋ってる。』1995年(監督/脚本)

  • 『大阪物語』1999年(脚本)

  • 『ドリームメーカー』1999年(脚本)

  • 『金髪の草原』2000年(監督/脚本/編集)

  • 『黄泉がえり』2002年(脚本)

  • 『ジョゼと虎と魚たち』2003年(監督)

  • 『死に花』2004年(監督)

  • 『いぬのえいが』2005年(監督)

  • 『オールラウンドAV物語 たのし荘の人々』2005年(監督)※NECプロモーション・ネットムービー/全7話

  • 『タッチ (漫画)|タッチ』2005年(監督)

  • 『メゾン・ド・ヒミコ』2005年(監督)

  • 『黄色い涙』2006年(監督)

  • 『眉山-びざん-』2007年(監督)

  • 『グーグーだって猫である』2008年(監督/脚本)


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    2008年02月03日

    映画監督[崔洋一]

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    崔洋一



    崔 洋一(さい よういち、チェ・ヤンイル、???、男性、1949年7月6日 佐久市|佐久 - )は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。日本映画監督協会理事長、宝塚造形芸術大学教授でもある。



    来歴・人物

    1949年7月6日、長野県佐久市に生まれる。1968年、東京朝鮮中高級学校を卒業。東京綜合写真専門学校中退後、照明助手として映画界に入り、小道具を経てまもなく演出部に転向、1976年、『愛のコリーダ』(監督大島渚、主演藤竜也)、1978年、『最も危険な遊戯』(監督村川透、主演松田優作)の助監督 (映画)|チーフ助監督を務める。1981年、テレビ映画『プロハンター』(主演草刈正雄、藤竜也)で監督デビュー。同作のプロデューサーであった日本テレビ放送網|日本テレビの山口剛、セントラルアーツの黒澤満のプロデュースのもと、「火曜サスペンス劇場」を2作撮り、満を持して1983年、『十階のモスキート』(主演内田裕也)でスクリーンに本格的にデビューする。同作はヴェネツィア国際映画祭にも出品され、1984年、毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞を受賞した。1993年、日本衛星放送(現WOWOW)のプロデューサー仙頭武則が立ち上げた「J・MOVIE・WARS」シリーズでのテレビ映画『月はどっちに出ている#ドラマ|J・MOVIE・ (BWARS 月はどっちに出ている』(主演石橋凌)にひきつづき、シネカノンの李鳳宇のプロデュースのもとに手がけた『月はどっちに出ている』(主演岸谷五朗)で報知映画賞、ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞、毎日映画コンクールほかの各賞、各部門賞受賞のほか、第17回日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞にノミネートされ、映画賞総なめの評価を得る。、文芸春秋社のマルコポーロ1993年9月号にて「一時流行ったんだな。左翼の日本人少女を口説くときは日帝三十六年史で落とせというのが(笑)」などとした発言に対し一部在日コリアンから「誤解を招く」と非難の声が上がる1996年には大韓民国|韓国の延世大学に留学、同国の映画人たちとの交流をはかる。1999年、映画『豚の報い』(主演小澤征悦)で第52回ロカルノ国際映画祭ロカルノ国際映画祭#金豹賞|金豹賞にノミネートされ、ドンキホーテ賞(国際シネクラブ賞)を受賞したAwards for Yoichi Saiによれば「ドンキホーテ賞 ''Don Quixote A! ward''」、日本映画監督協会 - 理事長の「プロフィール」には「国際シネクラブ賞」とあるので併記した。。また自作のWOWOW版『月はどっちに出ている』に「タクシー会社の課長」役で出演以来、俳優としての活動も頻繁になり、ついに同年、俳優として『御法度 (映画)|御法度』(監督大島渚)に近藤勇役で出演、翌2000年の第53回カンヌ国際映画祭の地を大島監督、ビートたけし、松田龍平とともに踏んだ。2005年、ビートたけし主演の映画『血と骨』(2004年)で第28回日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞。また同年、かつてTBSテレビの「男と女のミステリー」で手がけた大沢在昌原作の『探偵冴木涼介 十番街の殺人』(主演山崎努、1989年)以来、ひさびさに「大沢在昌#アルバイト探偵シリーズ|アルバイト探偵シリーズ」(『帰ってきたアルバイト探偵』)を原作に、WOWOWの「ドラマW」で『アルバイト探偵(アイ) 100万人の標的』(主演椎名桔平)を演出した。2006年、初の韓国資本の映画『壽 B (映画)|壽』(主演チ・ジニ)の撮影を開始し、2007年3月22日韓国国内で公開、同年ドイツの「ミュンヘン・アジアフィルムフェスト」で上映された。2008年1月25日にはドイツで早くもDVDが発売される予定であり、2008年夏、日本でも公開の予定である。近年は日本テレビ放送網の『午後は○○おもいッきりテレビ』やテレビ朝日の『ビートたけしのTVタックル』などにコメンテーターとして出演することも多く、辛口コメントで有名。『爆笑問題のススメ』(札幌テレビ)では国鉄から鉄の資材を盗んで売っていたと告白したが謝罪はなかった。2004年、日本映画監督協会第8代理事長に就任、2007年4月、宝塚造形芸術大学教授に就任。2007年秋、白土三平原作、宮藤官九郎脚本、松山ケンイチ主演による映画『カムイ外伝』の撮影を開始、2009年公開の予定である。



    フィルモグラフィ




    [ 助監督 ]


  • 1975年 ブラザー劇場『刑事くん』(第3部、テレビ映画、東映・東京放送|TBS)

  • 1975年 『新宿警察 (テレビドラマ)|新宿警察』(テレビ映画、東映・フジテレビジョン|フジテレビ)

  • 1975年 『告発 在日韓国人政治犯レポート』 監督岡本愛彦(統一社プロ)

  • 1976年 『愛のコリーダ』 監督大島渚(大島渚プロダクション、アルゴス・フィルム)

  • 1977年 『北村透谷 わが冬の歌』 監督山口清一郎(三映社、ATG)

  • 1978年 『皮ジャン反抗族』 監督長谷部安春(東映セントラルフィルム、東映ビデオ|東映芸能ビデオ)

  • 1978年 『殺人遊戯』 監督村川透(東映セントラルフィルム)

  • 1978年 『最も危険な遊戯』 監督村川透(東映セントラルフィルム)

  • 1979年 『俺達に墓はない』 監督澤田幸弘(東映セントラルフィルム)

  • 1979年 『さらば映画の友よ インディアンサマー』 監督原田眞人(キティ・フィルム|キティ・フィルム・コーポレーション)

  • 1979年 『探偵物語』(テレビ映画、東映芸能ビデオ・日本テレビ放送網|日本テレビ)

  • 1980年 『戒厳令の夜』 監督山下耕作(白夜プロダクション)

  • 1980年 『不良少年』 監督後藤幸一(東映)


    [ 監督 ]

    ・1980年代

  • 1981年 『プロハンター』(テレビ映画、セントラルアーツ・日本テレビ)
    第15話 『狙われた罠』
    第16話 『悪い女』
    第25話 『ロング・グッドバイ』(最終回)

  • 1982年 火曜サスペンス劇場『孤独な狩人』(テレビ映画、セントラルアーツ・日本テレビ)

  • 1983年 火曜サスペンス劇場『恐怖』(テレビ映画、セントラルアーツ・日本テレビ)

  • 1983年 『十階のモスキート』(ニュー・センチュリー・プロデューサーズ)

  • 1983年 『性的犯罪』(日活|にっかつ)

  • 1983年 土曜ワイド劇場『松本清張の断線』(テレビ映画、東映・テレビ朝日)

  • 1984年 『いつか誰かが殺される』(東映、角川映画#角川春樹時代|角川春樹事務所)

  • 1985年 『友よ、静かに瞑れ』(角川春樹事務所)

  • 1985年 『特命刑事ザ・コップ』(テレビ映画、テレキャスト・朝日放送)
    第5話 『死刑の街に罠をはれ!』
    第6話 『ため死い旅をとめろ!』「特命刑事ザ・コップ」放送リストを参照。 

  • 1986年 水曜ドラマスペシャル『亜樹子・哀しみ色の罠』(テレビ映画、テレパック・TBS)

  • 1986年 水曜ドラマスペシャル『恋物語』(テレビ映画、角川春樹事務所・TBS)

  • 1987年 『黒いドレスの女』(角川春樹事務所)

  • 1987年 火曜サスペンス劇場『あなたに似た人』(テレビ映画、ヴァンフィル・日本テレビ)

  • 1988年 『花のあすか組!』(角川春樹事務所)

  • 1988年 乱歩賞作家サスペンス『罠の中の七面鳥』(テレビ映画、東映・関西テレビ放送|関西テレビ)

  • 1989年 『Aサインデイズ』(大映 (映画)|大映)

  • 1989年 男と女のミステリー『探偵冴木涼介 十番街の殺人』(テレビ映画、TBS);1990年代

  • 1990年 水曜グランドロマン『最後の結婚詐欺』(テレビ映画、ギャラクシー・ワン・日本テレビ)

  • 1991年 水曜グランドロマン『他人にいえない職業の男』(テレビ映画、ギャラクシーワン・日本テレビ)

  • 1991年 『襲撃 BURNING DOG』(東映ビデオ)

  • 1993年 『月はどっちに出ている#ドラマ|J・MOVIE・WARS 月はどっちに出ている』(日本衛星放送、ヒルヴィラ、東映)

  • 1993年 『月はどっちに出ている』(シネカノン)

  • 1995年 『平成無責任一家 東京デラックス』(アミューズ、シネカノン、テレビ東京)

  • 1995年 『マークスの山』(松竹、アミューズ、丸紅)

  • 1998年 『犬、走る。DOG RACE』(東映ビデオ)

  • 1999年 『豚の報い』(サンセントシネマワークス);2000年代

  • 2002年 『刑務所の中』(ビーワイルド、衛星劇場)

  • 2004年 『盲導犬クイールの一生|クイール』(松竹、テレビ東京、テレビ大阪、衛星劇場ほか)

  • 2004年 『血と骨』(「血と骨」製作委員会)

  • 2005年 ドラマW『アルバイト探偵(アイ) 100万人の標的』(テレビ映画、ビーワイルド・WOWOW)

  • 2007年 『壽 (映画)|壽』(原題『?』、製作TrizCLUB) ※初の韓国映画

  • 2009年 『カムイ外伝』(配給:松竹、製作プロダクション:ビーワイルド映画「カムイ外伝」公式サイトを参照した。2007年11月21日閲覧。



    ビブリオグラフィ


  • 『月はどっちに出ている - 崔洋一の世界』(鄭義信らと共著、日本テレビ放送網|日本テレビ出版部、1993年 ISBN 4820394169)

  • 『東京デラックス - 平成無責任一家』(鄭義信と共著、扶桑社、1994年 ISBN 459401609X)

  • 『映画「血と骨」の世界』(梁石日、鄭義信と共著、新幹社、2004年 ISBN 4884000420)



    関連項目


  • 日本の映画監督一覧

  • BATTLE TALK RADIO アクセス(TBSラジオ。2003年9月ごろまでコメンテーターとして出演、不定期)

  • 若松孝二

  • 山口剛 (プロデューサー)

  • 岡田裕(ニュー・センチュリー・プロデューサーズ)

  • アナーキー (バンド)

  • 角川春樹

  • 榎望









    外部リンク




  • 日本映画監督協会 - 同協会の公式サイト

  • テレビドラマデータベース

    Quotation:Wikipedia - Article - History  License:GFDL
  • posted by れびゅんAE86 at 02:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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